生るるに時があり、死ぬるに時があり……

 僕らのフェイカー、栗本薫が死んだ(いつの話だろ)。
 
 草の葉ごとにすがる白露、という西行の歌を栗本薫中島梓は好んで引いていた。他にも「伝道の書」の「生るるに時があり、死ぬるに時があり……」であるとか、『歎異抄』の「慈悲に聖道、浄土のかはりめあり」であるとか、ぼくは栗本薫をつうじておおくの言葉を知った。あなたはもう、この世の人ではないのですよ。おれたちは滅びてゆくのかもしれない。レフト・アローン。フールオンザヒル。アストロ・ツイン。メネ・メネ・テケル・ウパルシン──でも一つだけ挙げるならやはり「うつし世は夢、夜のゆめこそまこと」だろう。その言葉がなければぼくは死を選んでいたのではないかとさえ思う。だから僕は『魔都 恐怖仮面之巻』がいちばん好きだ。本音をいえば『翼あるもの・下』とどちらにしようか迷うところだけれど。
 十六歳の僕には、自分が不完全な武智小五郎のように思えたものだ。少なくとも、大河原三郎のなげつける罵倒はことごとく思い当たった。それから二十年ちかく過ぎた今でもそうである。困ったものだと思う。
 そして『仮面舞踏会 伊集院大介の帰還』によってこの現実というかネットに魅力を感じるようになったので、ここでこうして生きている、と強弁してみる。まるで文章どうしが恋をするような、という表現が完璧に思い当たる。
 
 生活? 召使たちがかわりにやってくれるさ。
 だから僕は涼宮ハルヒの側に立つ。『わが心のフラッシュマン』を読みたまえ。
 
 魂。『魔都 恐怖仮面之巻』『翼あるもの・下』
 対峙する雄と雄。『パロのワルツ』。
 文体。『魔界水滸伝18』『カレーヌの邂逅』
 イメージ。『七人の魔導師』
 ブラヴォ、アミーゴ。『伊集院大介の私生活』『優しい密室』『天狼星III 蝶の墓』
 救済。時。『終わりのないラブソング』
 SF、恋。『レダ
 タナトス。『ゲルニカ1984年』『Run With The Wolf』
 バイブル。『小説道場』
 
 彼女の業績の大きさについては多くのひとが語るだろう。そして決して語り尽くせぬだろう。けれど、たとえマイナーな作家であったとしてさえ(といっても、プロとしてやっていけてる、というのは最低条件だが)、十代の僕はそれ抜きには生きていけなかった。才能もないのに愛されたい僕には『翼あるもの・下』が、毎日死にたい僕には『終わりのないラブソング』が、どうしても前向きになりたくない僕には『魔都 恐怖仮面之巻』が、ひとと喋るのが苦痛で仕方のない僕には『レダ』が。小説を書きたかった僕にはむろん『小説道場』が。そうして心の師、伊集院大介と加賀四郎がいてくれた。ぼくはおかげで、神を信じぬくせに聖書の言葉は信じるようになった。『さくらファミリア!』の感想はそういうことです。
 
 『グイン』があれば水野良なんて要らなかった。なるほど栗本薫はフェイカーに過ぎないが、それでもリトルリーグとセ・パ両リーグほどの差はあった。わけても架空の飲食物については古今東西随一だといまでも思う。タイス巡業篇もそうだけど、架空世界で『地球の歩き方』ができるのは栗本薫をおいてほかにない。
 サンザシの乾果を見るたびヴァシャを想う。中国北部の粉食文化における小麦粉は僕のガティ粉である。淡水魚といえばタイスであり、屋台料理といえばサイロンのそれだ。モンゴルの草原はモスの大海だし、タクラマカン沙漠はノスフェラスの入り口である。
 
 彼女の書いたものは恐ろしく精巧なレプリカか、さもなくば粗悪なジャンクで、ホンモノなんてきっと何ひとつなかった。誰かから借りてきたものばかりのフランケンシュタインズ・モンスター。ぼくらのエミヤでありデモンベインでありシオン・エルトナム。あるいは、正しい意味での近世大衆文芸の後裔。オリジナリティ? ジャンルとはそもそも「好きな作品の再現」という欲望により成立するものではなかったか。
 マガイモノにはマガイモノの意地がある、と空幻狐はいっていた。マガイモノであるがゆえに僕らにはそれが切実に必要だった。まっとうな小説など読むのは敗北に感じられた。いちばん簡単に書ける小説? 純文学に決まってるじゃん、と言い放った道場主は最高にかっこよかった。
 
 尾鮭あさみと須和雪里が好きでした。
 
 栗本薫のミステリ──すなわち、どんな証言も真相らしく見える語りも畢竟だれかによって語られた言葉にすぎない、という、『ネフェルティティの微笑』や『仮面舞踏会』に顕著な──について何か書きたい気はする。
 
 『ぼくらの時代』文庫版解説の栗本薫の本名の欄をマジックで塗り潰したのは良い思い出。栗本薫に対してぼくらができる最低限の礼儀は、その本名を忘れることだ。わかるだろう? てか、追悼文で本名に何度も触れている奴らはいったい栗本薫中島梓の何を読んでいたのか。
 
 さようなら。