ディストピア十傑

http://d.hatena.ne.jp/REV/20051214#p9
 漏れも漏れもー。
 そういえば、思春期のある時期において、そういうものを貪るように求めていたことがあるのだけれど、あれは何だったのだろうか。

 未来のどこかの惑星。マザーコンピューターによる母性的な管理。
 たぶんディストピア初体験。1984年やらビッグ・ブラザーやらの名前だけは知っていたけれど。
 14歳になれば「成人検査」によってそれまでの全ての記憶を消去され、新たな社会の成員にふさわしい「まっさら」な状態で大人社会の仲間入りを果たす。14歳の誕生日には「目覚めの日」という名が与えられていて、喜ばしき出来事とされるのである。
 しかしそんなことよりも印象に残っているのは、管理社会がなんというか柔らかい、明らかに意識的に母性的な、「マザー」と呼ばれるコンピュータが前面に立つものであることで、住民は義務としてコンピュータによる定期的なカウンセリングを受けるのだが、感じたこと全てを包み隠さず打ち明けるのは無論のこと、テレパシー能力を持つコンピュータに心の底まですべてを知られることが「あたりまえ」であり、むしろ「心の平穏」のために住民自身により積極的に求められる、という社会であった点だ。幼年都市(14歳までの子供と親が過ごす社会)の名が、「アタラクシア」ってのがまたこう。
 あと『DTエイトロン』でこれ思い出した。

 未来の地球。極東の都市。人権と自由の果てに。
 「すべての人間が尊重され、社会秩序を乱そうとする者ですら"紊乱者"と分類されて、その存在を容認されている理想社会。人々は適性や好みに応じて様々なギルドに属し、自由を謳歌しているかに見えた」。
 反社会的な行為を行う自由と権利、すら社会的に容認されていて、だから「紊乱者」のギルドまで社会の側でお膳立てしてくれる。
 あと「会話術(カンバセーション)」。まあコミュニケーション・スキルってやつなんだけど、それが学校教育の重要科目であり査定の対象となっている、というあたりも実にいい。

 デジタル監視社会。都市伝説管理。
 たとえば校門に赤外線センサーみたいなのが仕掛けてあって、遅刻するとそれに引っかかって、三回ぐらいでナントカ送りになる。生徒手帳にはそのテの減点が自動的に記録される。日常生活の細則に至るまでその種の査定は徹底していて、なんというか免停のごとく、一定の減点を食らうとそれは自動的に記録・報告されて、「黄色い救急車」みたいなノリで人知れず社会から退場と相成るのだが、どうなるのかは誰も知らない、みたいな。管理機構の実体が噂レベルにしか知られていない、というのが。
 実は遠い昔読んだぎりでよく覚えていないので、もしかしたら違ったかも。

 コマーシャリズムの果てに。
 当時は『1984年』も『すばらしい新世界』も『われら』もハヤカワSF全集で読んだものだが、ローティーンの僕にはこれがいちばん面白かった。資本主義社会に生きてましたから。「広告」がキーになるあたりがもう。
 「宣伝のための十則」みたいなのがあって、これがまんま現実の資本主義社会での大企業のやりそうな/やってることそのまんま。要するに『買ってはいけない』の世界で、というか『買ってはいけない』はディストピア本として読めると思うがどうか。「抗菌」関係とかさ。
 あと、実際にこの目で見た光景のはずが、医者にかかるとあっさりとフロイト的なトラウマ的記憶(つまり偽記憶)にされてしまうのが地道に恐い。『狂骨の夢』の先駆か。

  • 大阪化した日本(田中哲弥『やみなべの陰謀』)

 日本を席巻した「大阪」の支配下で、あらゆる人がどんな場面でも「ギャグ」に生き、「下品」に振る舞わなくてはならない閉塞感
 まあ、下品さやギャグが「唯一の規範」になってしまうのがどれほど気持ち悪いか、という見本。その手があったか。

  • 未来の日本(小川雅史『悪1013(あくとういちみ)』)

 完全な勧善懲悪社会。これは引用で済む。

 警察機能が完璧に機能していて、あらゆる犯罪について逮捕率が100%であり、裁判の判決にまったく間違いがない社会というものを想像してみて下さい。たしかにそういう社会では犯罪発生率はたいへんに少ないでしょう。けれども、それは必ずしも人々が倫理的になったということを意味しません。むしろ、そういう完全な勧善懲悪社会では、人々は倫理的にふるまう必要を感じなくなります。例えば、自分の目の前で犯罪が行われていた場合、身体を張って犯罪を阻止したり、被害者を命がけで救護したりする使命感をあまり感じないようになるということです。

 だって、そうですよね。すぐに警察がやってきて犯人を逮捕してくれるんですから。何も好きこのんで窮地に飛び込む必要はありません。

 現に、私が子どもの頃に大好きだった『月光仮面』というTV番組では、毎週のように、ワルモノたちが白昼悪事をなしていたわけですが、市民たちも警察の諸君も、わりとあいまいな表情で、その犯罪行為をぼやっと眺めているのがつねでした。なにしろ、少し待っていれば、必ず月光仮面が来てくれて「悪は滅びる」ことがはじめから決まっているんですから。市民たちも気楽と言えば、気楽なものです。

 そんなふうにして、勧善懲悪原理が完全実施された社会では、市民たちは眼前で行われている犯罪を看過することにさしたる疚しさを感じることもなくなる、これが「勧善懲悪の逆説」です。 (http://www.tatsuru.com/jibutsu/html/text.3.html


 ロボタイゼーションの究極において、人は他人と同じ部屋で同じ空気を吸うことに耐えられなくなる。コミュニケーションは映像を介して行われ、将来的には新生児も最初から映像しか欲しがらなくなることが目指されているという。
 「人間性そのものの改変」あたりがやはり萌えるのではないかと思う。あと「下品な四文字語」が「LOVE」のことであるとか。新生児育成施設にて、「アフェクション? 子供に必要なのは身の回りのアテンションよ」。
 それと、「ロボットへの命令の仕方」の巧拙でデジタル・ディバイドじみた状況が生じているのも割と。アイザック・エニアック神*1は神様だけあって色々と流石です。アシモフは『夜来たる』の、天文学的条件により一定年数で文明がオシャカになるように運命付けられてしまった惑星、も捨て難いのですが、ディストピアというとやはり人為と社会の産物という印象が強いので外します。あと「われ思う、ゆえに……」の、論理的反論がまるきり通用しない世界も好きなんだけど。
 もちろん、ダニールは古今東西のロボキャラのうちで最萌え。

 ノスタルジーとしてのディストピア。あるいは、様式美としての。映画からひとつ選ぶならこれ。もはや単なるファッションでしかないディストピア。現代へのアクチュアルな問題意識? そんなことよりカンフーアクションだ。
 というわけで、
http://web.archive.org/web/20030428154601/http://plaza28.mbn.or.jp/~projectitoh/cinematrix/roadshow_61.htmlにすみずみまで同意。
 ひとつ挙げるなら、管理社会風少林寺、とでも言うべきガン=カタの修行風景。いや、管理社会の正義と武道の求道性をうっかり結び付けてしまった感とか、それ以前に色彩やら動きやらにもう、メロメロ。

 個人的には、オセアニアは外せてもこっちは外せない。誰も彼もが身の丈に合った欲求しか持たなくて、およそ不満やストレスは薬物によって解消される対象──たんなる「気の迷い」でしかない。繰り返しになるが「人間性の改変」はディストピアの肝だと個人的には思う。
 あと、幼児教育とか胎教とかがもてはやされるたびに思い出します。それはつまるところ「社会への適応」を是とする以上は、この作品に描かれた「教育」と本質的に差異はない。

 南北格差・技術格差の極限化の果て、みたいな。
 勝ち組の先進国(コロニー側)からは国土も人的被害も一切出さずに行われる「戦争」が、もはやグローバルスタンダードになっている。自分たちは痛みを伴わずに戦争したいから、地球の人々は犠牲になって下さい、的な。これに比べれば、帝国主義による侵略戦争などまだしも律儀だ。

 さいごに魔術的ディストピアをひとつ。
 現実の歴史はあくまで温存しつつ、というのがキモ。しかしクトゥルー神話の邪神とナチスが夢の競演である。人類の未来は間違いなく暗い。「この現実」を塗り替えるという意味でこれは正しく魔術的と称されるべきで註釈なんかえらいことになっているのだが、それはともかく、とりあえず「国民的ラジオ受信機」が普及した社会はかくも不気味だ。


 数え直したら11あったが、気にしないことにする。
 あと、核P-MODEL「Big Brother」とかも外せないのだが、いいかげんきりがないのでこのへんで。

*1:秋山完『リバティ・ランドの鐘』より。むろんアシモフのこと。ちなみにアシモフ自身は無神論者。