都築真紀・長谷川光司『魔法少女リリカルなのは MOVIE 1st THE COMICS』

家族がいて/友達がいて
おうちとベッドと/ごはんの心配を/しなくてよくて
学校だって/楽しいのに
なんでなのかな
 
寂しくなる理由なんて
どこにもないのに
悲しいような
苦しくなるような
行き場のない/気持ちが
胸の奥から/出て行かない

 高町なのは、齢九歳の春である。
 月に吠える*1、じゃないけれど、わけもなく胸がつかえて、海に向かって吠えてしまうこともあるだろう。そんなことがあってもおかしくない年齢ではある。家族も友達もいて学校だって楽しいからこそ、理由もなく寂しさを感じることができる程度には、そして自分自身に違和感を持ち対象化できる程度には、彼女は心身ともに順調に育ちつつあるように見える。
 言い忘れていたが、これは劇場版のコミカライズではない。あんなリリカルの欠片もない代物とはまるで別物である。構成は小説反におおむね準拠しているが、もっとも似ているのは新房監督によるTV版第一期の、あの微妙に屈託した感じであろう。おそらく、過去もっともリリカルなのはこの『なのは』だ。
 やはりなのはさんの顔ばかり見てしまうのだけれど、TV版1stと同じく、ずいぶんとややこしい顔ばかりしている。単純な喜怒哀楽に分節できない、複雑な思いがあるのだろう。きっと、自分自身にもよくわからないような。「もしかしたら彼女自身もあんまりよくわかってないんじゃないかしら」。
 
 23ページのうしろあたまとか、実によいです。
 
 あと、フェイトさんの尻とか腰とかえろい。なのはさんの表情の次くらいに。
 
 空。空戦。なのはは本来空を飛ぶ人ではなかった、という話。資質からいえば彼女は本来「固定砲台」タイプで、空を飛び回るようにはできていない。空が好きだったのはフェイトの方で、なのはが「空戦」を志向したのも、そもそもあそこまで戦えるようになったのでさえ、ただフェイトに追いつきたいがためで。なんかもう、ねえ。ええ、たまりません。それを恋とか片思いとか、安易に名付けてしまいたくないほどに。

当たらない──
この子/こんなに飛ぶのが/上手かった──?

あの子──/こんなに強かった?
違うかな
強くなったんだ
なんのために?
誰のために──?

 
 小説版にせよこのマンガ版にせよ、なのはとフェイトの「最初で最後の本気の勝負」は、事件がすべて終わった後に置かれる。ジュエルシードを賭けたりしない純粋な勝負というわけだ。個人的には、二人が出会ったきっかけであるがゆえに、というTV版が好みなのだがここでは置く。
 このマンガ版では特にその意味は大きい。管理局の介入がTV版・劇場版よりほんの少し早まった結果、P・T事件は、なのはとフェイトとまったく関係のないところで終結してしまう。「事件の中心にいた二人の少女には/いまだ何の関係も生まれぬまま」に。事件の「報告書」*2という形式がそれを強調する。

 オチが思いつかないのでこのへんで終わる。

*1:《月に吠える、それは正しく君の悲しい心である。冬になつて私のところの白い小犬もいよいよ吠える。昼のうちは空に一羽の雀が啼いても吠える。夜はなほさらきらきらと霜が下りる。霜の下りる声まで嗅ぎ知つて吠える。天を仰ぎ、真実に地面(ぢべた)に生きてゐるものは悲しい。》《月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。》。だから、外部に理由の見つからぬ寂しさとはつまり、自分自身が自分にとって距離があるもののように感ぜられる、ということである。萌芽しはじめた自意識に未だ馴れぬのだと説明してもいい。要するになのはさんもそろそろ知恵が付いてきた、という程度の話に僕には見える。

*2:小説版五章を参照