杉井光『神様のメモ帳』

 たとえば世界では三・六秒に一人、子供が死んでいる。それはぼくのせいなんだ。そうアリスは言った。もし自分に十分な資金と手段があれば、死なずにすんだ子供たちがいる。ぼくは聖人じゃない、それはただ単純に、だから可能性の問題なのだ、と。
 そんなことを八年間ずっと考えていた。厳密に、毎日ずっと。
 だから、彼女は探偵になった。
 人が死んで、謎がある。たとえばそれが殺人事件であり、古典的な探偵の仕事の対象だ。探偵は謎を解かねばならない。なぜなら、その謎の正体を、あるいは謎に至る条件を事前に解明できていたのなら、被害者は死なずに済んだはずだから。「ぼくは知らなくちゃいけないんだ。もっと、ぼくがもっと多くを、もっと早くに知っていれば、止められたはずなんだ。ああなったのはぼくのせいだ。今からでも、知らなくちゃいけない、なんとしてでも、そうでなければ、ぼくは、ぼくは……」。だから謎解きとは、自身の無力さを確かめる行為であり、どのように無知であり無力であったのかを、徹頭徹尾具体的に認識するための行為だ。
 無力であることでぼくはあの事件の被害者に対し有罪だ。だから、きみもぼくを恨むといい。それが、ぼくが世界に関わるたったひとつのやりかたなんだ。
 八年。馬鹿だ。
 
 無力さによって世界と関わる者だけが探偵を名乗ることを許される。私立探偵は職業じゃない、生き方の問題なんだ*1。だからこれはハードボイルドである。

 「ただの探偵じゃない。ニート探偵だ。調布と田園調布くらい違うから気をつけたまえ」

 そうだった。天使のごときアリスよ、ゆるしたまえ。で、とりあえず、こういう子をつかまえてヴィクトリカと似てるの似てないのと言い出すのは随分な話だと思ったよ。強いていえば、伊集院大介さんがどっかで似たようなことを言っていた気はする。まあ、強いていえばだけど。
 事後にしか事件と関われない、というのは探偵の古典的なアポリアで、金田一少年とその祖父の死体の増殖を防ぐにあたっての「無力さ」と来たらいっそ見事としか言うほかないのだが、しかし無力さによって世界を獲得しようとする転倒こそがニート探偵たる所以である。なんだかユングのいう「内向」型の性格そのまんまって気もするが気にしてはいけない。そもそも性格などという死物で生きたキャラを測ろうとする方が間違いである。ところで調布と田園調布ってどう違うんだ?

*1:麻生俊平無理は承知で私立探偵(ハードボイルド)』