『ゼロの使い魔』

 アニメ版ゼロの使い魔#1〜#3を視聴。ちなみに原作は未読。
 ルイズたんが不憫で泣ける。ゼロ、というのが何を意味するのか知った時は突っ伏して泣いた。
 思うに俺は、何をやってもうまく行かない子、に弱すぎる。つまり逢坂大河とかそのへんだが。ここで、ドジっ子という呼称はあまりに当人の深刻さを軽視しているので、私はほとんどそれを憎悪している、と付加えておかねばなるまい。何が「なるまい」よ。僕が憧れるのは不屈の魂のほうだ。
 たまたま調子が悪かっただけで決して自分がドジなわけではない、あらゆる客観的現実的な過去の証拠に反して、「ゼロのルイズ」なんて言われて黙ってなんかいてやらない。だからこそひとつの失敗は常にとりかえしのつかない一回きりの決定的な事件で、だからこそ未来は常に開かれてある。次こそは、今までと同じとは限らない、そうに決まってるんだから!
 このあたりは、桑田乃梨子『おそろしくて言えない』の新名くんに憧れる女の子の話あたりを思い出していただければ、あるいはわかりやすいかもしれない。
 
 ところでオープニング冒頭、恥ずかしい夢を見て、そのやつあたりを現実の才人にしてしまう、というルイズたんは可愛らしいにもほどがありゃしませんか。

 あと某ハルヒとの比較でいえば、ルイズたんがちゃんと才人の手首をつかんでいるのはいいね。そういうときはあでも多少は気遣っているので、ふだんは耳を引っ張るのである。このへんヤマカンコンテというか京アニはどうも、お前キャラクターよりフィルムが好きだろ的な印象が否めません。石原立也はさすがに別ですが、あれはキャラクターを監督ないし視聴者視点で愛ですぎるのが別の意味で問題で、せめてキョンなり往人さんなり劇中人物の視点に憑依するカタチでやんないとフィルムになんねえよ、それやっていいのはアイドル映画だけだよ的なものに。何の話だ。

 ルイズが才人のことが気になるのっては、つまり、現実的な条件がそのようであるからといって、それに頭を下げるべき理由はない、というあたりに無意識のシンパシイを感じたせいなんでしょうか。いや#3まで観るともう、仲がよろしいことで、という以外の感想なんてなくなっちゃうんだけどさ。