http://b.hatena.ne.jp/entry/http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200310.html%2327
http://memoria.g.hatena.ne.jp/yu_i/20060614/p5
 ところで言っておかなくてはならないのは、はてブで二人ほどに引用されてしまったフレーズ、《普通に自然に行為・生活したいのにそれが出来ない、しかも意図的に「普通」「自然」に振る舞おうと心懸けることがまさに不自然である以上この円環から脱け出す道はない》というのは、http://web.archive.org/web/*re_/http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/8179/diary14.html(00/10/31)からの引用である、ということでして、当時はおそらく、astazapoteの過去ログの引用がすぐにそれとわかるような読者しか想定していなかった。この場合べつに引用元が拙文の論旨に噛む、というほどのことはなく、単にフレーズをパクった、という話ではあるんだけど、はてブでそこを引用されてしまっていたのでちょっと心苦しい。
 ちなみに「予め構成された相互主観性」はhttp://astazapote.com/archives/200004.htmlに《「予め与えられた相互主観性」とか「受動的に構成された共同性」》と言及されるので、個人的にはそちらの併読もお薦めしたい。
 だが「普通」云々についてはむしろ、astazapoteのONE評の元ネタの一つであったと記憶するところの新宮一成『無意識の病理学』(金剛出版)第三章、その名も「メランコリーと故郷喪失の幻想―「浄土幻想」から「日常」まで」こそが読まれるべきで、これには例えば「雑談の世界」というのがあって、これは「特に内容もない雑談を普通に交わせる」ような、そういう「普通さ」に憧れるひとの話なんですが、涙なくしては読めない。
 
 ちなみに『無意識の病理学』についてはhttp://imaki.hp.infoseek.co.jp/r0106.shtml#16で言及していたようです。「普通」についていえば、《「この語は、言語体系外の共通の指示物を指示するかわりに、再び言葉によってそれを言い換えてゆく可能性のみを伝達する。」「この言葉によって指示される、言語外の、「りんご」のような対象が、患者において事実として欠けているかどうかという問いの立て方は間違っている。」(新宮一成「無意識の病理学」金剛出版、108頁)》といった具合に。

 ついでに、http://memoria.g.hatena.ne.jp/yu_i/20060613/p1で触れて戴いているimkbbsのアレについては、「世界の他者性」という言い方は当然ジョージ・スタイナー『悲劇の死』からとってきたわけです。

追記(7/28)

 そういえば昔、こんなことを書いていた。
http://otd6.jbbs.livedoor.jp/608595/bbs_plain?base=920&range=1