谷川流『ボクのセカイをまもるヒト』(2)

 とりあえず夏葉薫さんによる書評を参照のこと──というか以下はだいぶネタが被った。でもまあ書いちゃったし。
 
 神林長平なら『プリズム』あたりですかねこれ。そろそろ、神林長平が何を書いても神林長平である程度には、谷川流は何を書いても谷川流なのである、と言いたくなってきた。
 そうね、『涼宮ハルヒの憂鬱』と『学校を出よう!』4巻と『絶望系』を思い出したわよ。
 フィクションのキャラクターはフィクションのキャラクターとしての存在本質を持ち、したがってかれらとて我々が我々の存在本質に従って生きる程度には生きていると呼ぶべきなのである、といったことを思わせなくもないです。フィクションの全肯定。いえー?
 ここで私が覚えるのは、かれらが紙の上で生きたり死んだりする存在であることは明示されつつ、同時に登場人物には一定の敬意が払われている、という奇妙な感覚だ。
 あと、ツンデレとかその種のことを絶対に言わないのがたぶん綾羽に優しい。というか男の子女の子の気持ちにはノー突っ込みなのねこれ。

追記

 あと、上のやつはもちろん2巻限定の感想で、たとえば1巻では似たようなことなど微塵も考えなかったのではありますがそれでも一応触れておくと、
http://d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20060623#p5

電撃マ王の「ボクのセカイをまもるヒトex」

これ以上ないくらい思いっきりツンデレって書いてた。

 だそうです。まあ長門さんをみもふたもなく「神秘的な無表情系」(『憂鬱』53頁)なんて称していた谷川流のことですから別に驚きませんが。