『AIR』TV版 #1(その2)

 さて、媒体の差もあれば尺の問題もあるから、アニメ化にはどうしたって、原作の編集は不可避だ。そして編集とはしばしば意味やニュアンスの変改を伴う。つまり、『地獄の黙示録』と『地獄の黙示録 特別完全版』では、事態の様相もカーツの人物像や役割や物語上の機能もかなり違って見える。人によっては全然別の映画だと言うだろう。

 そんなわけで、僕に言わせればTV版AIR#1はかなり原作とは別物である。あの夏には到底届かない。もちろん、相対的にはいい仕事をしているとは思う。ただ、原作『AIR』の見方も随分と人によって違う、という話をしたい。あと、TV版AIRが原作をどのように処理しているか、という検証作業は、それはそれで面白そうだし。

 それにしても、「どこまでも、どこまでも高みへ」も「今、目を閉じたら、連れて行ってくれるだろうか」も無いなんて! なにも、そのままのモノローグが無い、という話ではないし、鳥の夢を見るとか見ないとかいう話でもない。原作の各所に顔を出す、「上方」や「手の届かぬ高み」への指向──空にいる少女の話のことでもあれば、もっと形のない憧れのようでもある──が徹底的に排除されている。往人は空よりも先に観鈴を見上げる。空を見上げるのは観鈴の後を追うようにしてであり、見上げるのは常に具体的な理由と形が与えられている。何より観鈴が常に優先される。ようするにこのアニメ版では、少女(たち)の魅力が所与のものとして直接に視聴者に呈示されるのだ。製作者が(往人の視点を通さずに)直接に観鈴を愛でてしまっているようである。(なお、冒頭の鳥が飛び立つシーンでは「腹減った……」とつぶやいて虚ろな目をして倒れるのみで、鳥や空を見上げているとは見なしがたい。)

 原作で観鈴が往人に笑いかけるのは、往人が(観鈴の足が地面に着いているのを確認して)すっかり興味をなくした後だが、このアニメ版では、往人が観鈴に見入っているそのさなかである。

 原作の往人にしてみれば観鈴とは、あたかも空を飛んでいるように見えたのでもなければ最初から目もくれない相手であるが、TV版ではおそらく、あんまり可愛いから空でも飛んでるのかと思っちゃった、というニュアンスになる。これでは順番が逆だろう。あとそもそも、観鈴ちん、光臨! みたいな派手なカットで登場するのが正直つらい。アグネス仮面のリング入りかと思った。あと、そこで観鈴の足元を映すバカがあるか。観鈴があたかも空を飛んでいるように見えるのはあくまで往人の錯覚である、とあらかじめ明示しておく必要がどこにあるというのだ。もうちょっとカメラを、というか視聴者の心情を往人と寄り添わせな。

 付加えて言うならば、佳乃の声は原作では青空から降って来るし、美凪の登場は星空とセットだが、これはどちらも変更されている。佳乃については、映されるのは橋から見下ろされた往人であり、欄干についた佳乃の手だ。美凪の時間は夕暮れになるので空は意識されない。鳥(カラス)はきっちり地面から飛び立つ。だが、(物語当初の)『AIR』の「鳥」とは、ニューギニアからヨーロッパへと輸出される際、足を切り落とした状態で運ばれたため、一生を風に吹かれたまま上空で過すと考えられた、あの極楽鳥のようなイメージではなかったか。

 まあ、自己紹介がすんなり行きすぎるとか、id:sosuitarou:20050209やid:sosuitarou:20050210みたいな部分が丸ごとスルーないし変改されている(いっしょに悩む「馬鹿ふたり」が、「目が近いぞ」「往人さんって、おかあさんみたい」という諭し諭される上下関係になっているとか)、といった点にも違和は述べておきたい。個人的には、僕が死活的に重要な機微と感じる点に限って変えられている、という感が否めない。「往人さんが木の葉のように」とか「ラーメンセット」を残すくらいだったらさ。

 というか「ラーメンセット」はそうじゃない。往人さんには「ラーメンセット(ひとつ)」というのは、考えるより先に口が動いてしまうようなストックフレーズであり、誰が聞いていようといまいと、相手が誰であろうと関係がなく出て来るものだ。間違っても目の前の子供に、目の前の子供がラーメンセットというものを知らないかもしれない、と配慮して「知っているか」と語りかけたり、食べたいと説明し力説するようなものじゃない。バス停のベンチに坐ったまま、誰もいない宙空に向かって「ラーメンセットひとつ」とひとりごちているシーンを思い出そう。

 だいたい、観鈴に「うちラーメン屋じゃないよ」と返されて「じゃあ、ラーメンとご版」と言い直し、そこでようやく目の前の観鈴を意識した物言いになる、というのに繋ぐのでなければ、ラーメンセット云々なんて単なるネタでしかないのである。