http://blog.livedoor.jp/soylent_green/archives/51132622.html

 女の子がぞろぞろ出てくるのはハーレムものの基本なのでいいとして、乱入してきた不良たちを女の子キャラが一人でやっつけたのは気になった。そういうのが可能なのはギャグマンガだし、ヒロインの両親を見るとギャグ路線なのかもと思うがこの作品はメロドラマかなんかのはずで、となるとリアリティレベルをどう設定しているのかさっぱりわからない。新海誠の作品だと思ってみていたら途中で『うる星やつら』になったようなモヤモヤとした気分になってしまった。それとも最初にヒロインがいきなりアンパンがどうのと言い出したときに「これはコメディだ」と理解すべきなのだろうか。作画の水準が高いがゆえにかえって物語上のウソが作品に馴染まなくなっているということなのか。

 たぶんこういうリアリティ(レベルの混在)を、ひとは「マンガ」と称してきたはずでさ。こんなのマンガだマンガ。マンガじゃないんだから。云々。
 こういうのは京アニが実写映画を模倣するような画面を志向しているがゆえに起こっている違和感でさ多分。例えばアニメ版『桜蘭高校ホスト部』を想起せよ。べつに作画の水準が低かったわけではないが、物語上のウソが作品に馴染まない、といったことにはならなかったはずだ。というか上の引用部、ホスト部にほぼそっくりあてはまる気が。ハニー先輩はだいたい坂上智代くらい強い。
 まあ、少女マンガ的なリアリティがつまるところ「背景を描きこまないこと」に支えられていた、ともいえるわけで(宮崎駿『出発点』にそんな話が確か)、「作画の水準」が「三次元的な描き込み」をのみ意味するなら、上の引用部の結論は認められよう。
 
 それはそれとして。
 信者の端くれとして断言しておけば、このリアリティレベルの混乱あるいは混在は麻枝准を語る上で欠くべからざる要件ではある。この意味でアニメ版CLANNADは単に原作に忠実なだけだともいえる。詳しい説明は面倒なので、『MOON.』のスタッフコメントとDUNGEONS&TAKAFUMIS参照、とだけ言っておくよ。いやもう、コミックリリーフだとかそんなチャチなもんじゃ(ry