ちなみに《世界の秩序が強いる本質規定を逃れ、あらゆる「既知」への回収を拒んで、まだ見ぬ未来へ向けて自己造型してゆく「実存的」主人公である》ってのは、『現代思想のパフォーマンス』340頁からパクりました。《……当時のジャーナリズムは、不思議なことに、この「不条理の哲学」をサルトル実存主義と同類のものだと見なした。ムルソーは、世界の秩序が強いる本質規定を逃れ、あらゆる「既知」への回収を拒んで、まだ見ぬ未来へ向けて自己造型してゆく「実存的」ヒーローと誤読(、、)されたのである》。
 ちなみに、少し考えるとわかるが、少年マンガの主人公はたいていこういう造型です。既知の「正しさ」を認めない。「正しいからといって選べない選択がある」(『マップス』)、「イヤなことをイヤだというのに理由はいらない」(『からくりサーカス』)、等。曖昧でいいんじゃないですか、とアムロ・レイはいっていた。大十字九郎は「ヒーロー」であるが、かれはおそらく、せいぜい「後味悪い」という以外に理由を持たない(必要としない)であるがゆえにヒーローなのである。
 だから、それ自体としては我々のよく知る、むしろありふれた主人公像と見て何ら問題はないわけです。私としては、動機が曖昧だとか積み上げてないとかいった批判が批判として成り立つのなら、多くの少年マンガの主人公もまた同様の批判にさらされざるをえないだろう、としかいえない。
 というか伝統的に、作品世界内の既知の情報に即してきっちりした動機を持っているのは敵役のほうであろう。ジオンとか。


 あと、職業適性としての魔法少女。たぶん《第1話でなのはがすずか達と将来について話すシーンで、なのはが自分には得意な事がないと自分を評価しているが、魔法自体が、実はなのはの持っていた隠れた「才能」だったという位置付けに持っていっているのも面白い。》(ttp: //www12.plala.or.jp/sikoukairo/nanoha00.htm#03
)という時点で色々と明らか。なにしろ、魔法自体が、である。

 たとえば、病気で大きい声が出せないけど歌手になりたい子がいて、そこで魔法の力で健康になって外見年齢もアップして歌手になる、これはわかる。
 魔法少女の魔法とは元来、大人が現実にやっている職業を子供に演じさせるための、ちょっとしたズルというかエクスキューズにすぎない。可能ならば将来なりたいものに、いまなってしまうための方便。
 まあ、職業ネタが絡むとすれば。

 ところが、アリサちゃんは何でも得意だけど両親とも経営者だからそのあとを継ぐためにいっぱい勉強しようと思っています、すずかちゃんは機械系が好きなので工学系に進みたいそうです、で、なのはちゃんには魔法の才能がありました、となるともうわけがわからない。つうかこの時点でStrikerS で時空管理局に就職しちゃうあたりまで折込済みとみていい。