竹宮ゆゆこ『とらドラ3!』

 襲撃から始まり擬似家族を経由しやっと恋に至る、という予兆がまあ見えなくもない3巻。でもこれ、ブラコンとシスコンの兄妹だか姉弟が相手の気を引こうとする話、でも成り立つといえば成り立つ。むしろ、血縁関係がなければラブコメ
 で、竜児は私のだ、というのばかり取り沙汰されているようだけれど、むしろその直前の、おまえらみんな大嫌いだ、の方がツボった。
 なんで気がつかないのなんで助けてくれないの、近寄るんじゃないあっちいけ、おまえらみんな大嫌いだ。
 それはひょっとして自分のことかい逢坂大河ちゃんよ、とか言いたくなる俺は死ねばいいのに。
 で、どうしても思い出されるのは、溺れるというのはたいへんに息が苦しいものであるけれど、ずっと息が苦しかった、と大河がいっていたことで。竜児といるときだけは苦しくないの、とも。竜児が気付いてくれたとは思わないけれど助けてはくれた気はするかもしれない。
 誰も触るんじゃない、ってのはさ、自分のものだから、というより、おまえらみたいなばかどもには触れられたくない、てのが先に立つ。まあ、そういうもんなんだけど。叮嚀でよろしいんじゃないでしょうか。
 つまり、溺れている竜児に誰も気付かなかったときの大河の怒りを僕は想像することができる。どれほど理不尽なことか、怒りに値するか、みんなみんな間違っている、もはや貴様らには任せてはおけぬ、と来て最後にようやく、私のものだ、と言うしかなくなる。たぶん最後の一言だけが実感がない。論理的にそう言うしかない、仕方なく認めざるをえない、という部分になる。

たとえばさー、「愛してる」って言うじゃない。
そのときに自分が口にしている「愛してる」っていうことばってすっごくそらぞらしいじゃない。
だからさ、ガキは「オレは『愛してる』なんていわねーぜ」って突っ張るわけよ。
それはガキが「愛という現実」がどこかにあると思ってるからなのね。
「愛してる」ということばが自然にこみあげてくるような、「核になるような現実」、「すみからすみまで豊かな愛で満たされているような感情の実質」があって、それを実感できる人間だけがそのことばを口にすべきだ、というふうに考えるわけよ。ガキだから。
でも「実体としての愛」なんて、考えれば分かるけれど、実在するものじゃない。
「愛」っていうのはさ、「愛している」ということばを口にしたあとの「事後的効果」として生じる人間関係のあり方のことなんだから。
「愛してる」って言ったことで、「愛」が生まれてくる。
だって、そう言われたらさ、言われた方はなんだか気分がよくなって、それとなく愛想がよくなったりするじゃない。
気分がよくて愛想がいい人といると、こっちも何となく気分がいいじゃない。
それが「愛」なのよ。
「ケルン」なんか探しちゃ、ダメなのよ。
原因と結果はいつだって逆なんだから。
人間は未来に向けて過去を思い出す。
人間の語る物語はすべて「前未来形」で語られる。
感情というのは「こういう感情を私は抱いている」と言った「後に」なって「あったような気がしてくる」というもんなの。
http://www.tatsuru.com/diary/tomorrow/tm0206.html

 ただ一方で、みんな嫌いだ、という言葉の方は、たぶん実感としてあるように思うのだがどうか。