荒山徹『柳生雨月抄』
やりすぎ。やりすぎったらやりすぎ。
柳生友景が菊地秀行の美形主人公みたいなことになってました。というかあれよりひどい。
ハードカバーは高いので買おうかどうしようか迷わぬでもなかったのですが、目次を見たら耐え切れなくなって買った。
さて「雨月」といえば秋成の『雨月物語』であり、「太閤呪殺陣」(『十兵衛両断』)が『雨月物語』は「白峯」から随分と多くを借りている(そのままの引用まである)のは周知の通りですが、そして荒山徹がやはり秋成の「海賊」(と鴎外の「佐橋甚五郎」)を本邦の伝奇小説のルーツと考えているのは『伝奇城』所収の短篇に付された「作者口上」に書いてある通りなのですが、私は本書を読んで『雨月物語』の序文を読み返さずにはいられませんでした。自以為杜撰。則摘読之者。固当不謂信也。「こんなのデタラメに決まってるじゃねえか、誰が信じるんだよ」。思うに本書はたぶんそんなスピリットオブ秋成の具現化であります。でも雨月と付ければ何を書いてもいいってもんじゃない。
いや面白いんだけど。『雨月』なので伝奇というより怪異づくしだけど。なんというかこう、手心というか。学校で習ったあの史料がなんでこんなことに、というか。まったく、タルカスとブラフォードを見た時のジョナサン・ジョースターのような気分だ。
ところで韓国の歴史学者には、高句麗広開土王碑を《原文の「渡」字の前に、〈高句麗〉などの文字を入れ、あるいは「破」字の後に〈倭〉を補うなどしたりして、高句麗が海を渡り、高句麗が倭を破ったなどと解釈し》(『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』、中央公論社、p312)たりする連中がいるそうです。云う、これ時代伝奇小説なり*1。某話のオチで思い出したので書いとく。
それはそうと、あの時代の白峯陵周辺ってどうなってるんでしょうね。荒山徹は平然と『雨月物語』は「白峯」そのままの描写をしていて、つまり作中年代換算で四百年ばかりサバを読んでいるような気がするわけですが。
以下はネタバレ。「『柳生雨月抄』のここがひどい」。もはや突っ込んだら負けのような気もしますが。
- 目次がひどい
- 目次というか章題が。
- 第一章が「恨流」で第五章が「妖説・韓柳剣」。ずっと一人韓流だった、という荒山徹の恨ノ流レを感じさせずにおきません。朝鮮柳生を韓柳と称してどこが悪い。
- 雑誌掲載時の「李朝懶夢譚」が単行本化にあたり改題されたのは田辺聖子『王朝懶夢譚』のもじりであることがバレたせいかと思われるが、だからといってこれはない。「大」まで付いてるし。アンドリュー・フォーク准将か。
- 目次というか章題が。
- ネーミングがひどい
- 朝鮮半島がひどい
- 柳生新陰流の扱いがひどい
- 「介者剣法」(鎧武者相手の剣法)「逆風ノ太刀」という字面を持ったが不運と知れ。鎧ごと一刀両断すれば人は死ぬのだ。
- その他
- 「こうまで醜いものだとはな 憎しみを抱き続ける光景というものが… 他人がしているのを見てはじめてわかる」
- 例の歌のメロディーは『チャングムの誓い』の主題歌でよろしいですか。二番もあるんだぜ。
- ところで「ホウユ ドゥーユ ホウユニリヌナ」と「ヘイヤ ディイヤ ヘイヤナラニノ」は何か関係が。
- 「やって来てったらやって来て」。「たら」はねえだろう。