『魔法少女リリカルなのは』#13「なまえをよんで」についてだらだらと

 交換の喜びについて語りたい。人間とはつまり、ことばと、愛と、貨幣(貨幣経済以前にはモノを)交換する存在だ、と構造主義者たちは言っていた、と内田樹がどこかでいっていた*1

 最後の最後でようやく、なのはとフェイトは、初めて会話らしい会話を交わす。呼びかけがあり、応答がある。問いかけがあり、応答がある、問と答が交換される、会話とはつまりそれだけのものだ。名前を呼んで、呼ばれて、ただ「うん」と返事する、ただそれだけのことがどうしてこんなに胸に沁みるのかと思うけれど、つまりはそういうことなのだと思う。
 思えば彼女たちはずっと「相手のいないところでのモノローグ」ばかり繰り返していた。顔を合わせれば戦うばかりで、「言葉だけではきっと何も変わらない、伝わらない」、と言うフェイトに呼びかけても返答のあるはずもなく、名前は一方的に告げられるだけだった。なのはが一方的に呼びかけるばかりで、フェイトは戸惑うばかりだった。だから、普通にことばを換わすのは、これが初めてになる。
 そのような交換が行われる、ということが、つまり、ようやく触れ合えた、という、まあそれだけの話なんだけど。今更リボンについて触れる必要があるだろうか?

 触れ合えた、といえば、「キミの手は温かいな」。そういえばフェイトはいつも手袋をしていたので、直接手を握るのはこれが初めてになるのだな、とか。

 あと、ただ言葉を伝えるためだけにもいちいちド突き合わなきゃなんない、というのはたぶん都築氏の好むところで、とらハ3のレンと晶を思い出さずにいられない。#7でフェイトの手が傷ついて血まみれになっちゃってるのを見たりした日にゃあなた。

 あんな桜色のリボンなんてつけちゃうと、もうフェイトが随分と子供子供した感じになっちゃってさ、至福。

追記

 上のやつはむろん例のリボン交換から発想して書き始めたはずなのですが、結局それに触れるのを忘れていた。というのが面白かったのでそのまま晒す。
 書いている途中に何が書きたかったのか忘れる、ということはよくあります──曖昧にもほどがある。

*1:光文社新書現代思想のパフォーマンス』