Kanonにおける奇跡の扱い

http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20051117#1132243938

 Kanonの奇跡の扱いについては、DALさんが実際の記述に即したまとめを書かれていたなあ、というわけでちょっと参照しておきたい。いや上のリンク先で参照されてる拙文(http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#2)はあまりに読みにくいので、補足が必要かと思うし。
 なお、下は恣意的なピックアップであるので、前後の発言含めた詳細を下の「続きを読む」で読めるようにしておく。ちなみに高橋直樹氏の現在の見解は当時と違うそうです。
 引用元はいまはなき某掲示板より。もちろんhttp://imaki.hp.infoseek.co.jp/200309.html#2はこれを読んで書いた。

そして、僕の記憶する限り&今DC版の栞エンドその他を確認した限り(うわぁ粘着厨)、「一人の女の子がたったひとつの奇蹟を起こして、一人の命を救う」という話は栞の口から想像として語られるだけです。僕らはそれを読み、あゆシナリオを読むことで想像を逞しくするわけですが、それは「設定」として作品内で決定されることはない。
(略)
しかも、忘れられがちですが、名雪シナリオでは伏線として、シナリオの締めの言葉として、「たくさんの奇蹟」について再三言及している。名雪と香織(栞の姉)とで「奇蹟についての意見の対立」をやってみせているぐらい、作り手はそのバランスについて慎重に配慮している。

月宮あゆの力が誰かを救うことができる、という設定自体、あゆシナリオの中においてすら語られないのです。人形への三つ目の願い事が叶ったからあゆが助かった、という直接的な描写は最後まで存在せず、ただ栞の想像という形でしか、「奇蹟の法則」は語られないのです。あゆシナリオ、名雪シナリオは、「一見、栞の想像と合致しているように見える」だけで。そしてその話の前提条件となっているのは「私たちは誰かの夢の中にいるのではないか」なのです。
そして、あの印象的なモノローグが「あゆの夢の話」であると「わかる」のはあゆシナリオにおいてのみです。栞、名雪の各シナリオにおいては、「主人公の夢」かもしれない可能性は残されていて、そこに見えるのは(略)「確定的・合理的な解釈」を読み込もうとするプレイヤーの行動を想定しつつそれを徹底的に利用して、なおかつ真相を確定しない、非常にクレバーな手法です。

 だからまあ涼元悠一は「世界観に穴が開いてる」とか言うわけだね。
 上の見解は系譜的な面でも支持しうるもので、たとえば『ONE〜輝く季節へ〜』。そこでは「オレ」と「ぼく」の二種類の一人称による語りが交互するのだが、両者がどういう関係にあるのかは最後まで確定できる材料が得られない*1
 また、永遠の世界にいる少女の正体にせよ、長森シナリオでこそ顔も名前も登場し「ちびみずか」と我々に呼び慣わされもするものの、じゃあ他のシナリオではどうかといえばやはり語られずじまいで、どのシナリオでもみずかであるのか、それとも例えばそれぞれのヒロインと似た少女であるのか、といったことは決定不能といってよい。そもそもが、さまざまに分岐する学園日常篇が「永遠の世界」からの回想のように語られるのであってみれば、「永遠の世界」における同一の語りは、語られる対象を作品すべてにわたって確定しようとすれば、複数の相矛盾する過去が見出されてしまうような代物なのである。『Kanon』の「夢」はその反復・応用じみている。
 また『AIR』でもDREAM/SUMMER/AIRの各篇それぞれの語りが互いにどのような位置にあるのかは、明示・確定されることはない。しかし一方で『CLANNAD』はこのようなスタイルをほぼ捨てているといえるだろう*2

ほんと今さらですが、 投稿者:DAL  投稿日: 8月 9日(土)02時57分28秒

要するにエロゲ・ギャルゲを評する層ってのは今までこーゆーことをおざなりにしてきたって事の証明でもあります。

>高橋氏

>「痕」の評価でマルチシナリオによって世界観を多方向から照らし出す(中略)ToHeartや雫も含めて、Leafのシナリオは基本的にこの方針を守って書かれている。

では、「To Heart」や「雫」では、「世界観を多方向から照らし出す」のが評価されたのでしょうか。ひとつの作品内でシナリオが描かれる場合、普通はある程度設定を統一して書くとは思いますが、それをして「多方向からの視点で全体が見えることが面白さのポイント」と評するという話は寡聞にして聞きません。むしろ、そうした語りの切り口が比較的少ないからこそ『痕』は評価されたのでは。そして、注意して欲しいのですが、たとえばEVEや雫は「謎解き」がありますが、「謎解き=多方面から世界観を照らし出す」ではありません。そうではないからこそ、『痕』の斬新さに価値があったはずです。
それで、Kanonはそうした方向の「面白さ」を追求しているのでしょうか。

>過去が遡行的に決定する不条理な世界を表現したい

Kanonの作品のテーマが「不条理な世界を表現したい」であるという話も、私の知る限り聞きません。単に、各シナリオ間の調整よりも単独での物語の完結性を重視し、過去に関すること、設定に関することの整合性を整えるという作品にとって不要な要素を省いただけのことではないかと思われます。
「表現における省略と強調」のポイントが違うだけのことを「不条理な世界設定」と評するのでしょうか。

 そして、僕の記憶する限り&今DC版の栞エンドその他を確認した限り(うわぁ粘着厨)、「一人の女の子がたったひとつの奇蹟を起こして、一人の命を救う」という話は栞の口から想像として語られるだけです。僕らはそれを読み、あゆシナリオを読むことで想像を逞しくするわけですが、それは「設定」として作品内で決定されることはない。

 では、この「ぼかしかた」をあえて行ったシナリオ構成に意味を見出せないか。Kanonの伏線の張り方、全体の構成の巧みさについては多くの人の高評価がありますし、作り手が意図的に「ぼかし」をいれたことに意味があると見なすのは決して無理な読み方ではないと考えます。

 作り手は、あえてそうした可能性についてプレイヤーに想像を巡らせるよう画策しながら、確定させることを避けた。なぜそんな回りくどい真似をしたかと考えれば、まず「語られなかった悲劇が起きた可能性」を示唆させプレイヤーに奇蹟の価値を見出させようとした(何せ簡単なシナリオですから)、なおかつ、シナリオ内で語られたこと以外は全て決定的な世界観として採用させたりしないように、慎重に排除しようという意図が働いたのではないか、と思われます。

 しかも、忘れられがちですが、名雪シナリオでは伏線として、シナリオの締めの言葉として、「たくさんの奇蹟」について再三言及している。名雪と香織(栞の姉)とで「奇蹟についての意見の対立」をやってみせているぐらい、作り手はそのバランスについて慎重に配慮している。たくさんの、しかしかけがえのない、奇蹟という。(そのへん「シナリオ全体」として作品を見ようとするなら、シナリオ間の設定の矛盾などという些事にこだわってみせる前に、見るべきものがあるのではないでしょうか)

プレイヤーはそのシナリオで起きたこと以外は全て知りえず、そして「奇蹟はたったひとつ」という言葉にさえ作品内で疑問符が提示されていることからすれば、「まさにあらゆる可能性(ヒロインの自己犠牲から、全ての人に救いの手が差し伸べられる、その間の全て)に想いをはせ、その上でいま目の前である出来事(ハッピーエンド)を心の底から受け入れる」という地平に辿り着くのではないでしょうか。「みんな助かる」のはもちろんKanonとは別の物語ですが、「誰かが犠牲になる」のもまたKanonとは異なる別の物語です。多分、さほど受け入れ難い事でもないと思うのだけど。



どうも、高橋です。 投稿者:高橋直樹  投稿日: 8月 9日(土)04時40分16秒

そもそも私の発言の発端は、設定の過去への遡行や解釈の不確定性などの
特定のパラダイムによるKanon解釈が、Kanonについてはもちろんのこと、
他のギャルゲ一般の解釈論としても当たり前の定説のように押し付けられることへの
違和感からあることをご理解いただきたい。
もちろん、私は誰かに決定論的な並列世界解釈を押し付ける積もりは毛頭ありません。
そういう読みが有意義で有り得るし、その目覚しい(おそらく最大に近い)成果の例
として「痕」の解釈が上げられる、と言っているのです。
ONEやAIRを読む場合、「えいえん」からの回想やAIR編での転生という形で
設定の遡行を積極的にアピールしている作品ですので、貴方の解釈論は目覚しい成果を
発揮するでしょうし、おそらくは作者の意図したところでしょう。
Kanonについてはその他二作ほど意識的に見えないし成果があるようにも思えませんが、
それが私の読みが甘いせいであるというならばそうなのかもしれない。

ただ、それをKanonもしくはギャルゲ一般について普遍的に適用すべき解釈論で、
乗ってこない奴は時代遅れかバカである、との言いようには反感を覚えるのです。
故意にそう書いたかはともかく、過分に挑発的だったことは否めないでしょう?
他のギャルゲには他の読みがあるいは有意義であるかもしれないし、
Key作品にしたところで、そのような解釈論による読みだけが
全てではないかもしれない、と言いたいだけです。

>設定に関することの整合性を整えるという作品にとって不要な要素

必要だと主張する積もりはありませんが、全体が整合性をもってすっきりと
収まることに美や快を感じる人間は少なからずいることをご理解いただきたい。
それに、設定に不整合のある作品は、普通は不条理と呼ばれるのでは。
(いいか悪いかの問題ではありません。不条理物は不条理物で大好きです。)

ヒロイン全部が救われるか、あるいは誰かが犠牲になるのか、奇跡がどうあるべきか、
なんてのは、私にとっては美しさの条件にはなりえない些事に過ぎませんが、
設定全体に整合性があるかどうかはそうではない。それは美の基準のひとつなのです。

#好き嫌いで言うなら、奇跡なんて嫌いだし誰もが助かる話より犠牲の出るビターさの
#ほうが好きです。それが卑しいと評価されるなら甘んじて受けましょう。
#私は卑しい三文ポルノ書きであり三文ポルノ愛好者である自分が嫌いではないので。

貴方の意見に反論する積もりはないし論理の流れとしては理解できますが、
作品評価における重み付けが違いすぎて、気持ちの部分までは理解できません。

長文ご容赦ください。では。

(無題) 投稿者:高橋直樹  投稿日: 8月 9日(土)06時03分35秒

少女が奇跡について夢想的なポエムを呟くのが解釈上それほど重要でしょうか。
互いに矛盾している以上、単に自分が思ったところを話しているだけかもしれないし、
僕にとってあんまり楽しいところでもなく、重み付けは低いです(だから忘れていた)。
あゆの夢の話が何度も(まるで中心的設定であるかのように)繰り返されている以上、
あゆの超能力が誰を救うか(誰を救わないか)が久弥パートの共通のベースに
なっているという解釈は、「たくさんの奇跡」というモチーフに魅力を感じず、
合理性を重んじ、いわゆる鬱ゲーが好きな人からすれば、シナリオを愉しむという
目的に合致したものとして認めて欲しいだけでして。
元長氏の作品ばかりがKeyの直系の子孫のように見えますけど、
今の鬱ゲーだってKeyの遺産を受け継いで隆盛したものなのですから、
そんなに嫌わないで欲しい(笑)。

言い忘れましたが、
>「みんな助かる」のはもちろんKanonとは別の物語ですが、
>「誰かが犠牲になる」のもまたKanonとは異なる別の物語です。
ここにはなんの問題もなく同意できます。
僕は、誰かが犠牲になるというのもひとつの自然な読解でありうる、
としか言ってないので。ある意味、これで議論になる部分は終わって、
後は価値観の問題でしかない気もするのでした。



レス 投稿者:DAL  投稿日: 8月 9日(土)08時43分14秒

高橋直樹

書き込みありがとうございます。

>ある意味、これで議論になる部分は終わって、
>後は価値観の問題でしかない気もするのでした。

はい。実のところ読んでいて、私と高橋さんとの間に好み以上の違いは基本的にもないだろうと思ってはいます。(kagamiさんの文章についても同様に)
ただ、私は全ての作品、ひとつひとつに対応した「読み方」があるはずだと言いたいだけです。ですので、当然ながら、Kanonの読解に使った手法を多作品にまで敷衍する気はありません。「読み方」は作品の中から自然と発生するはずで、作品の整合性というのはそうした「浮き上がってくる読み方」が作品全体として一つにまとまった状態のことを指すと思っています。
逆に「整合性を欠く」作品とは、作品内から全体を貫く一つの流れが見えず、部分ごとに異なる読み筋が要求され統合されない、もしくは作品の外部の読み筋(メーカーの予算とか)が見えてしまう作品です。
Kanonは奇蹟というキーワードをはじめ、確実に全体に一貫した流れが存在し、その読解の流れの上に「痕」的な読みを要求されるとは思えません。

また引き合いに出しておられた「弟切草」「かまいたちの夜からして、キャラクターの設定はシナリオごとに変わりうる作品ですし、設定が展開によって変化するというのはしばしば見られる手法です。それが格別特殊な事例というわけでもないし、使用されたからといって主題となっているという必要もない。

もちろん、そうして浮き上がってきた読み方(「主題」や「技法」)が気に入らない、つまらないという批判はできます。個人的には、他人にツッコミを入れるのでなければ、もっと「作品」なんて枠組をぶち壊した論を展開するのも面白いと思ってたりもします。ただまあ、今回はKanonという作品に対する作品論で始まってる以上、そこの枠組は守って話を展開すべきでしょう。

>あゆの超能力が誰を救うか

月宮あゆの力が誰かを救うことができる、という設定自体、あゆシナリオの中においてすら語られないのです。人形への三つ目の願い事が叶ったからあゆが助かった、という直接的な描写は最後まで存在せず、ただ栞の想像という形でしか、「奇蹟の法則」は語られないのです。あゆシナリオ、名雪シナリオは、「一見、栞の想像と合致しているように見える」だけで。そしてその話の前提条件となっているのは「私たちは誰かの夢の中にいるのではないか」なのです。
そして、あの印象的なモノローグが「あゆの夢の話」であると「わかる」のはあゆシナリオにおいてのみです。栞、名雪の各シナリオにおいては、「主人公の夢」かもしれない可能性は残されていて、そこに見えるのは、それこそ高橋さんに代表されるような「確定的・合理的な解釈」を読み込もうとするプレイヤーの行動を想定しつつそれを徹底的に利用して、なおかつ真相を確定しない、非常にクレバーな手法です。僕はその全てを不確定の中に落とし込みつつ、まるで必然的で整合的な読みができるかのように、実際には不連続で断片的なエピソードを浮き上がらせていく、そこに世界の不連続性と不確定性の描写を見出そうとするのは、それほど無理な読み方でしょうか。(ああ、今木さんの真琴話ってコレか? じゃあその路線で)
大げさに言うなら、Kanonは「夢」という言葉に韜晦しながらも、近代以降の創作につきまとう「物語の確定的な記述」に対しての野心的な挑戦してみせた、そうした評価はできないか。現実と創作との最大の断絶は、現実世界がいかにも不確定で不連続であるように見えるという点なのですから。(そしてそこに東浩紀氏が「偶有性」という言葉を用いて創作を現実にダイレクトに連絡させようと試みる、直接的な手法の根源が見て取れます)

そこにあるのは、主人公の一人称によって物語が進行するという形式を徹底的に利用した、ノベル形式のAVGの表現のギリギリの冒険のひとつです。

うわ偉そう。とりあえずここまで。