たまには脊髄反射的に。

《成田の群像劇を楽しめるかどうかは最終的には、まったく無関係に存在する全ての要素が、終盤において一つの物語、一つの真相へと収束していき最終的に世界や事件の全体像が明らかになる、という過程にカタルシスを得られるかどうか、にかかっている。
(略)
 が、僕が面白いと思うのは、まったく無関係に見える人間たちが、たまたま何かの偶然でであってしまうけど、それでもやっぱり最後までバラバラで、結局世界の全体像もわからないし、だからそれぞれ勝手に解釈して勝手に納得するしかない、という話なのだ。》(http://d.hatena.ne.jp/cherry-3d/20051015/p1

 後半については『AIR』を連想した。というか、『AIR』は『ブギーポップは笑わない』のように読まれるべきである、というのが僕の年来の主張です。というか麻枝准のシナリオ全般に言えるようなことでもあるように思う。諸要素ないし人間たちのバラバラさ、を空間的であると同時に時間的でもあって、これは時間ないし記憶が連続しない、という言い方ができる。SUMMER篇のことは誰も記憶しない。翼人伝は残らず、なんかヘンな人形だけ残る。あと天沢郁未はMINMESの内容を記憶しない、とか。で成田良吾的に収束させると『SNOW』になる。

 ええと、http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200405.html#29aでそのようなことを書いていた。単なるアリバイ提出だし読みにくいので読まなくていいです。

 あと、《一般的には、凡庸なフィルムメーカーは「一望俯瞰的」な物語に固執し、怜悧なフィルムメーカーは「断片から全体を想像する」物語にこだわりを示す。》(http://movie.tatsuru.com/html/otoboke9.html、『ロスト・ハイウェイ』評)。なんてのが上のリンク先の下にありますが、別に成田良吾が凡庸だと言いたいわけではありません。読んだら言うかもしれませんが、一冊も読んでいないので。