『AIR』TV版 #5

 たとえば観鈴を映す時にとくにそうなのだが、構図をほとんどいじらず、カメラを固定したまま人物なり情景なりがじっくり映される。すごい長回しってんじゃなくて切り替わりはするんだけど。まるで、そこにあるものをそのままに映すというか、実際にあるものをあるがままに撮っているみたいだ。観鈴や彼らがあの町にいる、という確信に満ちている。参った。
 9割方は人間に普通に可能な目線の範囲内。なんかハンディカムで撮れそう。あれだ、アニメ版D.C.#9のCパートの最初のへん。

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 どこまでもつづく海を見たことがある。
 ……いや失敬。麻枝信者から見ても#5はやりすぎ(いい意味で)。あの夏に届かないどころか、ONEやCLANNADの印象まで呼び起こすほどに。この感覚は知っている。起きていても半ばは夢の続きにいるであるような、あの感じ。また、目の前でしゃべってる誰かに、不意に彼岸の景色が重なるような、あの感じだ。むろん夢だの彼岸だのは「往人の過去」として合理化はされている。あるいは美凪の母の病として。がともかく、それは不意打ちのように襲いくるのである。たとえば『CLANNAD』序盤の、父親から逃げ出した先で渚と出会うあのシーン、といえばわかるだろうか。
 目覚めはまぶしい(魚臭くはない)、というのがここで出てきた。原作では漁協組合で目覚めるシーンと「そら」の最初の覚醒で反復される、というのはまあ言わずもがな。
 空を飛びつづける飛行機と、それを地上から見上げる(まだ飛べない)カラス。あるいは美凪の、飛びつづける鳥を地上から見上げる図もありますが、およそAIRにおいては地上と空の高みは隔絶していて、空を飛ぶものとはあらかじめ手の届かぬ高みにいるものであり、地上から飛翔し空に至るのはよほど特権的なものとして扱われます。なので、#1で早々と、地上から飛び立って空に至る鳥を思わせぶりに見せてしまったのは、どうも不可解でした。そのうちわかるのかもしれませんが。

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 尺の関係でかなりハイペースで話を進めなければならないのだが、ストーリーの展開に資することのないシーンにもかなり力が入れられている。どうということのない日常、を短時間のうちに切り取って見せる術に長けているというべきか。またタダ働き、なのである。うっかり犬と自然に会話してしまうほどに退屈で寂しい。
 おそらく、ストーリーを見せるのと同じほど、時間がちっとも流れてゆかないあの夏の感じ、は表現されねばならない。そのためには、特定の時系列やストーリー上の特定のシーンであるよりは、この夏のあいだのいつのことかふと判然としなくなるような、そんな一齣がどうしても必要なのだ。この要請に答える意志があるのは明らかである。そんなわけで、往人とポテトと名もなき姉妹のいつもの風景、みたいなシーン(原作にはこのままでは存在しなかったと思う)がちゃんとあるのは良。あと、全般にシーン
うまく因果関係に沿って説明されないというか、実際に見せられるのは断片的なシーンの連なりで、シーンとシーンの間の因果なり過程なりはこちらで構築せねばならない。むろんモンタージュ理論からこっちフィルムとはそういうものなのだが、にしてもその度合いが強い気がする。気がついたらいきなりその場所にいる感じだ。これも前述の、時間が流れていかない感じ、に貢献しているように思う。

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 細部について。あるいはキャラクターの息吹が感じられる、という点について。
 子供子供したみちるが良い。美凪のお弁当食べてるところに往人が表れて、往人に何か言いかけるんだけど、飲み込んでから喋れ、と言われて、で飲み込んだら美凪にごちそうさまと言って、それでさっき何かを言いかけてたことなんて忘れてる。あるいは、間接キスばっちーとか騒いでても、目の前にシャボン玉ができればそっちに夢中。どうにもたまらんね。
 トランプしたいとせがむ観鈴と往人の会話がなぜか一瞬だけ関西弁になるとか。あるいは、みちるがふと「シャボン玉ってきれい。からっぽで、お空みたいで」という(たぶんTV版オリジナルの台詞)、なんというか純粋に個人的で意味のない感想を洩らすとか。もりげさんが言うところの「細かい部分」みたいな機微に触れているように思う。あと美凪との「思っちゃってます」「思っちゃってる」「ちゃってます」という会話は原作にもあるけど、こうして視聴するとちょっと小津みたいな良さがあるね。