『AIR』TV版 #4,5

 そんなわけで、件のシーンがリテイクされてます(違)。こっちには文句がありません。原作をきちん解体し再構成しているように思う。
 とりあえず、そこで往人のモノローグは何によって代替されているのか、という方向で考えてみると、往人は冒頭からなにやら物思いに耽ってる感じだし、「おまえは笑ってろ」と言うセリフも、観鈴のほうを向かず、あたかもひとりごとのように口をつく。自分の気持ちも、そこで言うべき言葉も掴み損ねているのだけれど、何か言わずにおれないように。で観鈴は言葉通りの反応を返す。いいやつだ。この意味で#2の「夢の話はあまり他人にしない方がいい」「だいじょうぶ。往人さんにしか話してないから」という(アニメ版オリジナルの!)会話の反復でもある。あと、原作では往人は空にいる少女に風が与える仕打ちについて勝手に思いを馳せているのだが、このあたりは観鈴の現実の苦しみの部分に差し替えている。

 別の言い方をしよう。原作では観鈴が「空にいるわたし」の悲しみについて述べるとき、往人は現実の観鈴に「笑ってろ」と言う。そして観鈴が現実の自分の苦しみについて語るとき、往人は「お前は、この空にいるんだろ、今も…」と言ってしまう。つまり目の前の観鈴と空にいる少女が常に重なり合う。だが#5ではそういうことは起こらず、現実の苦しみを語る観鈴に対しかけられるのは、やっぱり目の前の観鈴ちんへの言葉なのである。要するに普通。会話に限れば原作の異様さが抑えられているのだが、この程度に抑えて正解だろう。充分に異様に張り詰めてもいれば、現実感が危うくなりそうな絵が作れるのがアニメである。

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 それにしても、往人と観鈴が二人きりで堤防に坐っているシーンを思い出すと、かれらはふたりとも、互いに顔を見合わさず、ひとりごとのように喋ることが多いのだけれど、聞くほうはいつだって、相手の横顔を見つめて、じっと耳をすますのである。