http://d.hatena.ne.jp/ityou/20040401#p1
http://d.hatena.ne.jp/smatoba/20040406#p1
 ここで気になるのはあの「トゥルーエンド」というやつである。ノベルゲームにおいては、形式上には確かに踏み台にされるその「悲劇的結末」は、しかしそれこそが「真」とされることが稀でない。やがては世(略)
 『月姫』ではトゥルーエンドとグッドエンドでは設定からして違ったし、ヒロインによってはグッドエンドは存在しなかった。ハッピーエンド(グッドエンド)は既に、同一の世界を要求するわけでもなければ、必ず存在しなければならないものでもない。そして『AIR』だ。また、近年話題となった代表的なノベルゲームの少なくとも二つ*1は、実質的にはただ一つのエンディングしか持たず、その結末で描かれるのは別離であったように思う。

 ところで、東浩紀は次のように書いている。以前も触れたが、

《……小説の読書とノベルゲームのプレイのあいだには、物語の体験という点で決定的な差異がある。前者があくまでも単 一の物語を辿る体験であるのに対し、後者は、ゲームというジャンルの本性上、複数の物語と結末をランダムに往復する体験にならざるを得ないからだ。そしてこの特徴は、シナリオが重厚で複雑になるほど、ノベルゲームの製作者に根本的な矛盾を突きつけていくことになる。ゲームでは、主人公は、幸せになることもあれば不幸になることもある。ヒロインは、生き残ることもあれば、死ぬこともある。そのような条件のなかで、作者は、読者に対して、はたして本当に固有で単独的な感動を与えることができるのか。》(東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」第一回、講談社ファウスト』Vol.1)

 出来る。出来るのだ。と東浩紀佐藤心の論を援用しつつ述べていたような気がするが、アレとかアレを見るに、やっぱりこの「矛盾」はノベルゲームとしてのギャルゲー(の作者のいくたりか)には持ちきれなかったのかもしれない。

*1:CROSS†CHANNEL』と……何だっけ忘れた。