たとえば竹田青嗣『陽水の快楽』や笠井潔の大真面目なミステリ論はどーよ、と思わなくもない。あれも、陽水聞いたりミステリ読んだりするエクスキューズだったんだろうか。
 竹田青嗣は陽水に対し「超越論的な響き」という言葉さえつかう。無論大仰だ。ただしエクスキューズなんてものではない。のちになって大仰さを認めたりもするが、自分の感動がそうした言葉を捕まえてしまった、感動とはそこまでゆくものだ、という必然性は否定しない。できるものでもない。

 思うに、これは竹田青嗣のいいかたを少しばかり借りていうのだが、例えば「天才」などというのは随分と大仰な言葉だが、わたしたちがなにかに感動するあまり、思い余ってついそう呼んでしまうのでなければ、いったい何だというのだろう。

 まあ、ぼくがいいたいのは、 「あれはネタだ」と か「あれはベタだ」とかばっかり言っているひとは、自分が頭がいいと自慢したくてしかたないだけなんじゃないだろうか、ということぐらいですが。