分析的な意味での「父」とは単なる生物学的な父のことではない(生物学的な母が「父」である場合も多い)。
「父」とは「世界の意味の担保者」のことである。
世界の秩序を制定し、すべての意味を確定する最終的な審級、「聖なる天蓋」のことである。
どの社会集団もそれぞれに固有の「ローカルな父」を持っている。「神」や「天」という名を持つこともあるし、「絶対精神」や「歴史を貫く鉄の法則性」と呼ばれることもあるし、「王」や「預言者」という人格的なかたちをとることもある。
その世界で起きていることは(善きにつけ悪しきにつけ)を何かが専一的に「マニピュレイト」しているという信憑を持つ社会集団はその事実によって「父権制社会」である。
どれほど善意であっても、弱者や被迫害者に同情的であっても、「この世の悪は“マニピュレイター”が操作している」という前提を採用するすべての社会理論は「父権制イデオロギー」である。
父権制イデオロギーが諸悪の根源である」という命題を語る人は、そう語ることで父権制イデオロギーを宣布しているのである。
なぜ、私たちは「父」を要請するのか。
それは、私たちが「世界には秩序の制定者などいない」という“真実”には容易には耐えることができないからである。
実際には、私たちは意味もなく不幸になり、目的もなく虐待され、何の教化的意図もなく罰せられ、冗談のように殺される。
天変地異は善人だけを救い、悪人の上にだけ雷撃や火山岩を落とすわけではない。
もっとも惜しむべき人が夭逝し、生きていることそのものが災厄であるような人間に例外的な健康が与えられる。
そんな事例なら私たちは飽きるほど見てきた。
では、世界はまったく無秩序で、すべてのことはランダムに起きているのかといったら、そうではない。
そこには部分的な「秩序のようなもの」がある。
世界を包摂するような秩序を作り出すことは誰にもできない。
けれども、手の届く範囲に限れば「秩序のようなもの」を打ち立てることはできる。
科学的に思考し、フェアに判断し、身体感受性が高く、想像力の行使を惜しまない人々が「ダマ」になって暮らしている集団があれば、そのささやかな集団では「秩序のようなもの」が「無秩序」を相対的には制するだろう。
けれども、それはあくまで、一時的、相対的な勝利にすぎない。
その「秩序のようなもの」を一定以上の範囲に拡げることはできない。
そのような「ローカルな秩序」はローカルである限りという条件を受け容れてのみ秩序として機能し、普遍性を要求した瞬間に無秩序のうちに崩落する。
繰り返し書いているように、正義を一気に全社会的に実現しようとする運動は必ず粛清か強制収容所かその両方を採用するようになる。
歴史はこの教訓に今のところ一つも例外がないことを教えている。
私たちは「父」を要請してはならない。
たとえ世界のかなり広い地域において、現に、正義がなされておらず、合理的思考が許されず、慈愛の行動が見られないとしても、私たちは「父」の出動を要請してはならない。
「ローカルな秩序」を拡大しようとするときも、ひとりひとりの「手の触れる範囲」を算術的に加算する以上のことをしてはならない。
私は「父権制イデオロギー」に対する対抗軸として、「ローカルな共生組織」以上のものを望むべきではないと考えている。
思弁的にそう思うのではなく、経験がそう教えているのである。

村上文学における「父」の話をしているところだった。
話を戻そう。
文学もまた「父」を(ほとんどそれだけを)ひさしく主題にしてきた。
あるときは「父の武勲詩」を、あるときは「父に抗う子どものパセティックな抵抗(と劫罰)の物語」を、あるときは「父の不在」を嘆く悲嘆の詩を。
その中にあって、現代の何人かの作家たちは「父抜きの世界」を描くという野心を抱いた。
その中の一人であるアルベール・カミュは自作について次のように書いている。
「私は哲学者ではありません。私は理性もシステムも十分には信じてはいません。私はどうふるまうべきかを知ることに関心があります。もっと厳密に言えば、神も理性も信じないでなお、人はどのようにふるまい得るかを知りたいと思っているのです。」(Albert Camus, Interview a` ‘Servir’, Essais, Gallimard, 1965, p.1427)
このカミュの言葉にエルサレム村上春樹は全幅の賛意を示しただろう。
「システム抜き」でも人間はやり遂げることができるか。
ふるまい方を指示するマニュアルも教典も存在しない世界でも、人は「人として」ふるまうことができるか。
もしそれができるのだとしたら、何が人の行動の規矩となるのか。
ほとんどの人はこれからのどうするかを決めるとき、あるいはすでに何かをしてしまった後にその理由を説明するために、「父」を呼び出す。
それは必ずしも「父」の指導や保護や弁疏を期待してではない。
むしろ多くの場合、「父」の抑圧的で教化的な「暴力」によって「私は今あるような人間になった」という説明をもたらすものとして「父」は呼び出されるのである。
「父」の教化によって、あるいは教化の放棄によって、私は今あるような人間になった。
そういう話型で私たちのほとんどは自分の今を説明する。
それは弱い人間にとってある種の救いである。
世界は「父」を呼び出すことで一気に合理的になり、さまざまなものが名づけられ、混乱は整序される。
けれども、そのようにして繰り返し自己都合で「父」を呼び出しているうちに、「父=システム」はますます巨大化し、遍在化し、全知全能のものになり、人間たちを細部に至るまで支配し始める。
「私が今あるような人間になったことについて、私は誰にもその責任を求めない。」
そう断言できる人間が出てくるまで、「父の支配」は終わらない。
「父の支配」からの「逃れの街」であるような「ローカルな秩序」は、そう断言できる人間たちによってしか立ち上げることができない。
カミュレヴィナスはそう教えている。
私は彼らの考想に同意の一票を投じる。
そして、村上春樹もまた彼らと問題意識を共有しているということについては確信がある。
『1Q84』にはたくさんの「小さな父たち」が登場する。
青豆の父も、天吾の父も、「ふかえり」の父も、タマルの父も、みな自分たちの子どもをさまざまな仕方で棄てる。
それが子どもたちに深い傷を残す。
「リトル・ピープル」という「邪悪なもの」はおそらくそれらの「小さな父たち」の「しけた悪意」の集合表象のようなものだ。
主人公たちはその「邪悪な父によってつけられた傷」によって久しく自分の現在を説明してきた(あるいは「説明する能力」の欠如を説明してきた)。
それが彼らをどこにも進めなくしてきた。
「トラウマ」とはそういうものだ。
何が起きても、誰に出会っても、「あのできごと」に帰趨的に参照されて、その意味が決まる。
「トラウマ」とまったくかかわりのない、「新しいこと」は決して起こらない。そのように過去に釘付けにされることが「トラウマ」的経験である。
何を経験しても、それを「父」とのかかわりに基づいて説明してしまう(「父が私にそれを命じたから」あるいは「父が私にそれを禁じたから」)。
そのような言葉づかいをしている限り、「父」の影響を一方的に受ける「被制者」という立ち位置から私の人生は始まったという話型で自分について語る限り、「子ども」たちは「父」から逃れることができない。

『1Q84』は、困難な歴程の果てに、主人公たちが「邪悪で強大な父」という表象そのものを無効化し、「父」を介在させて自分の「不全」を説明するという身になじんだ習慣から抜け出して終わる。
それはもちろんはなやかな勝利ではないし、心温まるハッピーエンドでもない。
けれども、私は村上春樹がこの作品で「父の呪縛」から逃れる方途について何かはっきりした手応えを覚えたのではないかと思う。
それはこの作品の骨組みのゆるぎない物語構造と、細部の(ほとんど愉悦的なまでの)書き込みから感じられるのである。
http://blog.tatsuru.com/2009/06/06_1907.php

つねづね申し上げているように、年齢や地位にかかわらず、「システム」に対して「被害者・受苦者」のポジションを無意識に先取するものを「子ども」と呼ぶ。
「システム」の不都合に際会したときに、とっさに「責任者出てこい!」という言葉が口に出るタイプの人はその年齢にかかわらず「子ども」である。
なぜならどのような「システム」にもその機能の全部をコントロールしている「責任者」などは存在しないからである。
「システムを全部コントロールしているもの」というのは、自分が被害者である以上どこかに自分の受苦から受益しているものがいるに違いないという理路から導かれる論理的な「仮象」である。
これを精神分析は〈父〉と呼ぶ。
〈父〉がすべてをコントロールしており、〈父〉がこの世の価値あるもののすべてを独占しており、「子ども」たちの赤貧と無能・無力はことごとく〈父〉による収奪と抑圧の結果であるというふうに考える傾向のことを「父権制イデオロギーと呼ぶ。
その点ではマルクス主義フェミニズムも「左翼的」な「奪還論」はすべて「父権制イデオロギーである。
父権制イデオロギーは当たり前であるが、父権制を批判することも、もちろん父権制を解体することもできない。
〈父〉を殺して、ヒエラルヒーの頂点に立った「子ども」はそのとき世界のどこにも「この世の価値あるもののすべてを独占し、〈子ども〉たちを赤貧と無能・無力のうちにとどめおくような全能者」が存在しなかったことを知る。
どうするか。
もちろん自ら〈父〉を名乗るのである。
そして、思いつく限りの収奪と抑圧を人々に加えることによって、次に自分を殺しに来るものの到来を準備するのである。
というのは、彼または彼女が収奪者・抑圧者〈父〉として「子ども」の手にかかって殺されたときにはじめて、彼または彼女は〈父〉が彼らの不幸のすべての原因であったという「物語」が真実であったことを身を以て論証することができるからである。
〈父〉を斃すために立ち上がったすべての「革命家」が権力を奪取したあとに、〈父〉を名乗って(国葬されるか、暗殺されるかして)終わるのは、〈父〉の不在という彼ら自身が暴露してしまった真実に「子ども」である彼ら自身が耐えることができなかったからである。
父権制社会」を創り出すのは父権制イデオローグであり、彼らはみな「子ども」であり続けようとしたせいで不可避的に〈父〉の立場になってしまうのである。
http://blog.tatsuru.com/2007/12/02_1208.php

人間は「父抜き」では世界について包括的な記述を行うことができない。
けれども、人間は決して現実の世界で「父」には出会えない。
「父」は私たちの無能の様態を決定している原理のことなのだから、そんなものに出会えるはずがないのだ。
私たちが現実に出会えるのは「無能な神」「傷ついた預言者」「首を斬られた王」「機能しない『神の見えざる手』」「弱い父」「反動的な革命党派」といった「父のパロディ」だけである。
「父抜き」では「私」がいま世界の中のどのような場所にいて、何の機能を果たし、どこに向かっているかを鳥瞰的、一望俯瞰的な視座から「マップ」することが出来ない。
地図がなければ、私たちは進むことも退くことも座り込むことも何も決定できない(はずである)。
でも、地図がなくても何とかなるんじゃないか・・・という考え方をする人がまれにいる。
村上春樹は(フランツ・カフカと同じく)、この地図もなく、自分の位置をしるてがかりの何もない場所に放置された「私」が、それでも当面の目的地を決定して歩き始め、ランダムに拾い上げた道具をブリコラージュ的に使い、偶然出会った人々から自分のポジションと役割について最大限の情報と最大限の支援を引き出すプロセスを描く。
http://blog.tatsuru.com/archives/001706.php