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……ある強大なものが起源に存在し、世界を分節している。「私」はそれにはるかに遅れてこの世界に到来した。だから、「私」はどういう「ルール」で「ゲーム」が行われているのかわからない。「気がついたら、ルールがわからないゲームにプレイヤーとして参加していた」というのが象徴界における「子ども」の立場である。
(内田樹「ジャック・ラカン」、『現代思想のパフォーマンス』)
つまり、学校が「規則」を通じて教えているのは、「学校には規則があり、教師たちはその遵守を子供たちに要求するが、その規則の起源を教師たちは言うことができない」という(人類学的=類的スパンにおいては合理的なのだが)個人的=短期的スパンを取るとまったく意味不明の事況に子どもたちをなじませるためなのである。
この「ぜんぜんはなしがみえねーよ」的事況を混乱のうちに通過することによってしか子供は大人になることができない。
(http://blog.tatsuru.com/archives/000850.php)