Angel Beats! #12「Knockin' on heaven's door」

 「僕」は彼らの導きによって、現実とは違う世界に触れる。ところが現実の世界と幻想的世界がないまぜになって物語が佳境に入ると、ほとんどつねにこの「異界のひと」は謎めいたメッセージを残したままかき消えてしまう。
 村上春樹のワンダーランドにおいて、この「異界のひと」たちが「何を意味するのか」、私には長いあいだ分からなかった。彼らは何かの隠喩なのだろうか。彼らの語る言葉は何か私たちの世界の成り立ちについての重要な情報を含んでいるのだろうか。
(略)
 異界からの使いたちは「何かメッセージを伝えるために」主人公の「僕」の前に姿を表したに違いない、私はそう考えた。だから、私は彼らの「メッセージ」の「意味」を知ろうとしたのである。だが、異界から到来する人々はじつに難解なことを言う。
(略)
 私は律儀な読者としてこれらの「異界からのメッセージ」が何を言おうとしているのかを考えた。考え続けた。そして、「わたしの言うことが分かる?」とすみれさんに問い詰められても、結局分からなかった。
 最後に分かったのは、「これらのメッセージには意味がない」ということであった。
 羊男さんがきっぱりと言い切っていたように、「意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ」というのは異界からのメッセージの読み方を指定するメタ・メッセージだったのである。
 私は読み方を間違えていたのである。
 私たちはたいていの場合、原因と結果を取り違える。
 異界からの理解不能のメッセージは、「僕」の住む人間たちの世界に起きている不条理な事件を説明する「鍵」であるに違いない。私はそう思い込んで、物語を読んでいた。どうして、そんなふうに信じ込んでしまったのだろう。どうして、意味の分からないメッセージには「意味がない」という可能性を吟味しようとしなかったのだろう。
 それは私たちの精神が「意味がない」ことに耐えられないからである。
 私たちは「意味がないように見えることにも、必ず隠された意味がある」と思い込む。私たちが「オカルト」にすがりつくのはそのせいだ。
 一見意味がないように見えることにも「実は隠された意味がある」と言ってもらうと、私たちは安心する。
 だって、私たちが一番聞きたくないのは、「無意味なものには意味がない」という言葉だからである。
 しかし、作家たちのだいじな仕事の一つは、その言葉にリアリティを与えることだ。『城』のカフカ、『異邦人』のカミュ、『グレート・ギャツビー』のフィッツジェラルド、『フランシス・マコーマーの短い幸福な生涯』のヘミングウェイ……村上春樹はおそらくそのような作家たちの系譜に連なっている。
 「僕」の住むこの世界で「僕」や「僕」の愛する人々は、「邪悪なもの」の介入によって繰り返し損なわれる。だが、この不条理な出来事の「ほんとうの意味」は物語の最後になってもついに明かされることがない。
 考えてみると、「不条理な物語」だ。
 しかし、これらの物語を逆向きに読むとき、はじめてその意味が見えてくる。
 これらの物語はすべて「この世には、意味もなく邪悪なものが存在する」ということを執拗に語っているのである。
 邪悪なものによって損なわれるという経験は、私たちにとって日常的な出来事である。しかし、私たちはその経験を必ず「合理化」しようとする。
 愛情のない両親にこづき回されること、ろくでもない教師に罵倒されること、バカで利己的な同級生に虐待されること、欲望と自己愛で充満した異性に収奪されること、愚劣な上司に査定されること、不意に死病に取り憑かれること……数え上げればきりがない。
 だが、そのようなネガティヴな経験を、私たちは必ず「合理化」しようとする。これは私たちを高めるための教化的な「試練」であるとか、私たち自身の過誤に対する「懲罰」であるとか、私たちをさらに高度な人間理解に至らせるための「教訓」であるとか、社会制度の不備の「結果」であるとか、言いつくろおうとする。
 私たちは自分たちが受けた傷や損害がまったく「無意味」であるという事実を直視できない。
 だから私たちは「システムの欠陥」でも「トラウマ」でも「水子の祟り」でも何でもいいから、自分の身に起きたことは、それなりの因果関係があって生起した「合理的な」出来事であると信じようと望む。
 しかし、心を鎮めて考えれば、誰にでも分かることだが、私たちを傷つけ、損なう「邪悪なもの」のほとんどには、ひとかけらの教化的な要素も、懲罰的な要素もない。それらは、何の必然性もなく私たちを訪れ、まるで冗談のように、何の目的もなく、ただ私たちを傷つけ、損なうためだけに私たちを傷つけ、損なうのである。
 村上春樹は、人々が「邪悪なもの」によって無意味に傷つけられ、損なわれる経験を記述し、そこに「何の意味もない」ことを、繰り返し、執拗に書き続けてきた。
『1973年のピンボール』の中で、ジェイは「鼠」に向かって、前足が潰された飼い猫の話しをする。車に轢かれたとも思ったが、それにしてはひどすぎる。誰かが猫の前足を万力にかけて潰したみたいな傷である。

「まさか。」鼠は信じられないように首を振った。「いったい誰が猫の手なんて…。」
 ジェイは両切の煙草の先を何度かカウンターで叩いてから、口にくわえて火を点けた。
「そうさ、猫の手を潰す必要なんて何処にもない。とてもおとなしい猫だし、悪いことなんか何もしやしないんだ。それに猫の手を潰したからって誰が得をするわけでもない。無意味だし、ひどすぎる。でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。あたしにも理解できない、あんたにも理解できない。でもそれは確かに存在しているんだ。取り囲まれているって言ってもいいかもしれないね。」

 私たちもおそらく例外ではない。「万力はさまれた猫の手」のような、「無意味で、ひどすぎる」経験が次の曲がり角で私たちを待っているのかも知れない。
 かなり高い確率で、と村上春樹は言う。
 だから、角を曲がるときは(無駄かもしれないけれど)注意をしたほうがいい。
 そして、おそらく、そのような危機の予感のうちに生きている人間だけが、「世界の善を少しだけ積み増しする」雪かき的な仕事の大切さを知っており、「気分のよいバーで飲む冷たいビールの美味しさ」のうちにかけがえのない快楽を見出すことができるのだと私は思う。
内田樹村上春樹とハードボイルド・イーヴル・ランド」、『村上春樹にご用心』)

 ちなみに、麻枝准の過去の作品においてメタ・メッセージとして指定しうるのはこのあたり。

誰かが俺に何かを訴えている。
それがわかる。
だがその手段はあまりに強引だ。
俺の手には負えない。
つまり、その受け取るすべが俺のほうにないのだ。
それは俺を傷つける。人を傷つける。
鉄パイプを耳の穴に通すようなことはやめてくれ。
そんなものは通らないのだ!
(『Kanon』)

頭が痛む…
記憶があいまいになりかけている。
あるべき自分に、俺は還ろうとしている。
この記憶は思い出してはいけない記憶だった。
人の記憶は、この体にはあまりに大きいものだった。
ぼろぼろとこぼれてゆくのがわかる…
記憶とちしきが…こぼれてゆく…
(『AIR』)

 神尾観鈴が「自分でもよくわからないんだけどね」と語るごとく、世界の「真相」は、われわれの理解を絶している。現に晴子にとっては観鈴の語る言葉はまったく不可解だった。涼元祐一のSUMMER篇は一見「真相」らしく見えるが、それは登場人物の手の届くところにはないのである。