逢空万太『這いよれ! ニャル子さん』1〜3

 うむ、這いよりたまえ。存分に這いよるがよいぞ。と思ったが本篇にクローリングする描写なんてあったっけ。ああ、アレか。夜這い。
 ところでニャル様といえば「這い寄る混沌」であり間違っても「這いよる混沌」などとは表記されないのだが何故に「這いよれ」であって「這い寄れ」ではないのか、ということが気になって仕方がない。
 あるいは、クローリングケイオスとはつまりろくに志向性なぞもたない「這い回る混沌」ないし「這う混沌」と訳す方が自然に思えるのだが、ハイヨルコントン、の語呂の良さは何者にも替え難い。
 「いつもニコニコあなたの隣に這い寄る混沌、ニャルラトホテプです」
 そんなわけで、彼女は真尋さんのもとを目指して這い寄ることができるのです。日本語でしか成立しないネタですね。それ以前に日本人しかやんねえよこんなこと、というのは置く。エンジェル・フォイゾン以来の伝統が云々。
 しかし本作を特徴づけるのは萌えクトゥルーではなく、恐らく本邦では鋼屋ジン以降のスキームであるところの「どうせクトゥルー神話なんて二次創作の山なんだからネタまみれでいいじゃない」というマインドである。参考。畜生ブレンパワードまた観たくなったじゃねえか。鋼屋ジンについてはむろん虚淵玄のシリアス一辺倒ぶりへの差別化、があるのだがここでは置きたい、といいつつ一応引用しとく

 虚淵玄作品の特徴が,ハード/ストイック/洗練された何かであったとすれば,鋼屋ジンはその逆を行かねばならない。すなわち,ライト/派手/雑然とした何か,だ。これらはニトロプラスの得意な要素と併せて,荒唐無稽なスーパーロボットという方向性と合致する。そして,重厚なクトゥルー神話とアニメ的なノリ,キャラクターの悲劇的な過去と喜劇的なふるまいなど,相反するものを幾重にも重ねた作品,きれいに落ち着くことを拒んで最適解を裏切るものを目指す作品がデモンベインであり,矛盾が持つパワーこそが創作のテーマなのだという。(http://web.archive.org/web/20080212020510/http://www.4gamer.net/games/030/G003007/20071003004/

 私に言わせれば虚淵玄作品もまた、泣いていいんだか嗤っていいんだかわからないB級マインドに満ち満ちた雑然たる代物(http://otd6.jbbs.livedoor.jp/608595/bbs_plain?base=65&range=1)で、煩悩に満ち満ちたおよそ洗練の二文字からは程遠いくせに矢鱈とシリアス、という男の子向けハーレクインみたいなシロモノであり、というかB級ってのはつまりそういうことなんだけど、ジョン・ウーとか、鋼屋ジンから感じるのはむしろ端整なまでのバランス感覚である。ぶっちゃけTVアニメ的な、ギャグとシリアスの適度なバランス、みたいな。デモベのライカルートはともかく。
 
 何の話だっけ?
 そんなわけで、本作の類例を過去に探すならばデモベないし『竜†恋[Dra+KoI]』ギャグパートあたりがもっとも近いと思われます。ネタまみれの会話といい、ヒロインへの突っ込みっぷりといい。あと銀髪碧眼といえばアル・アジフ。体験版では地の文のみ真紅の瞳のそれなんてレッド・星だったことは覚えておきたい。

 さてニャル子さんが好感度を上げるための選択肢じみたあざとい行為ばかり選ぶのも、地球人と恋っぽいことしたいばかりなのではないか、と思うとなんかこう不憫というか愛しくてたまらんというかニャル子さんは普通にタイプなので好きです。僕は頭悪い子が好きすぎるのではないかと思う。あるいは無条件かつ絶対的な恋慕を。なぜ絶対的かといえば、好かれる相手の身になって考えることなど、たとえ真尋くんと精神交換されて実際に相手の身になってさえ金輪際ないからであり、宇宙人だから共感能力とか欠けてても仕方ないじゃないですか、ためしに一度地球外知性体の身になって、地球人の男の子に一目惚れしてさてどうやってアプローチしたものかと悩むさまを想像してみるといい。萌えるから。だいたい、萌えクトゥルー、といいながら貴様らはちっとも萌えていないではないか。萌えるとはこういうことだ。いやクー子とか本気で可愛いと思ってる人がいるのは知ってる。真尋とニャル子をガチでラブコメ扱いしている人がいるのも知ってる。だから。