冬樹忍『たま◇なま 〜キミは、何故生きている〜』

 最終巻。どうかお幸せに、という以外に言うべきことはないように思う。あるいは、僕は素晴らしいラノベを読んだ、と友人たちに伝えてください。
 わたしはおまえに人間にしてもらった、だから感謝している、とあの鉱物娘がいう。数万年を生きる恒久を、ちっぽけな少女に。無限の叡智を、ありふれた、他者への不安に。世界征服の野望を、ただの恋に。
 第一巻を読んだとき連想したのは『ベルリン・天使の詩』である。つまり色々あって「生きる」ことをやめてしまった少年と、未だ生きることを始めていない少女(という二種の天使的存在)が出会う、これはそんなボーイミーツガールだった。当然オチは、天使をやめて人間になる、ということになる。結婚式には呼んでくれ。

 ところで内田樹は「邪悪なもの」について語っている。《……私たちを傷つけ、損なう「邪悪なもの」のほとんどには、ひとかけらの教化的な要素も、懲戒的な要素もない。それらは、何の必然性もなく私たちを訪れ、まるで冗談のように、何の目的もなく、ただ私たちを傷つけ、損なうためだけに私たちを傷つけ、損なうのである。》(内田樹「邪悪なものが存在する」、『期間限定の思想』)
 主人公が「天使」になってしまったのはそんな「邪悪なもの」に触れてしまったからである。『悪魔のミカタ』なら宇宙人や吸血鬼がそれにあたる。また片山憲太郎の描く社会はそういう「邪悪なもの」だらけだ。
 それなりに徴候的である気はするが、とりあえず保留。