http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20070116#p1

もうあの本覚えてないけど、木田元的には超越的人格神と物質的自然観が矛盾せずに共存できるの? だとすれば、そもそもこの話題に持ち出すこと自体不適当でしょ。俺は、超越的人格神を否定するような哲学が出来なかった時代があった、という話しかしてないもん。

 ああ、うん、称しかねるかねないってのは、「本の内容と食い違いがある(ので語弊がある)」という指摘。
 あとこちらとしては、高橋さんが『反哲学史』の内容も素性も、また「形而上学的思考様式」とか「物質的自然観」といった用語も理解しないか、またはあまり考えないまま、あの本に文句つけているのが解せない。とかそういう話しかしてないんだよもん。うろ覚えで本に文句付けるひと嫌いです。
 まあ言っても詮ないことなので、おひまな時にでも再読されるなり、スルーされるなりご随意に。
 ちなみに「共存できるの?」の答はイエス。てか、むしろ木田元を抜きにしても、一神教なら普通、自然は単なる物質にすぎない気が。天地自然万物に神宿る日本人の多神教的な自然観と異なり、創造神を据える一神教では自然は単なる物質にすぎない、みたいなクリシェがあったと思う。つまり「物質的自然観」とは「自然を単なる物質と見なすこと」であって。
 高橋さんはどうも、機械論的自然観とか数学的自然観とかそのへんの総称として使っているように見えるのですが、それがそもそも僕には不可解な用法です。
 

で、野崎さんのスピノザ理解がアインシュタインの理解に順ずるのだとすれば、それは古い新カント派やらによる一面的なスピノザ理解とそう違わない、というのは同意が取れたんですかな? そうでないなら反論よろ。

 新カント派によるスピノザ理解、なんてこちらはまったく言及した覚えはないんですが。
 そもそも、汎神論という語の有無さえ度外視した(アインシュタインは「スピノザの神」としか言ってないのでは、汎神論という総称でなく)「スピノザ理解」とやらを、争う気は最初からありません。こちらはただ、汎神論という「語を出すか出さないか」のレベルでしか話をしていない。
 つまりhttp://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20061223#p1

 あと、スピノザは汎神論者だから。こんなんGoogleで調べるだけでも分かるんだがなあ。「キリスト教的」vs「無神論的」という構図を描きたいのは分かるが、スピノザへの言及でユダヤ教だとか汎神論という語が出てこないのはおかしすぎる。

 「語が出てこないのはおかしすぎる」の揚げ足取り。
 上野修スピノザ』(の感想)の範囲なら、汎神論という語が出てこなくてもおかしくない。なにしろ上野修がひとことも出してない。そして、出てこなくてもおかしくない場合はいくらでもある。また、どうしても出さなくてはならない場合は限られる。という話しかしていない。
 ちなみに、上野修の本読んでないから、と高橋さんにスルーされた時点で、スピノザ云々は終わってるか止まってるかしてます、こっちとしては。一応触れておくと、上野修は他の本では汎神論の語を出してる。またもちろん、スピノザについて包括的な記述を行うなら、汎神論の語は必須。
 野嵜さんについては、あの人今回はアインシュタインにもスピノザの神にも言及してないし。「厳密に区別する」とか「理性的」とか「態度」とか「キリスト教圏に生れ育ったことの必然的な帰結」とか言ってるし(闇黒日記平成十八年十二月二十三日)。「神のモデル」みたいな話にしちゃったのは高橋さんでしょ。ちょっとついていけない。
 それはそれとして、野嵜さんが、「スピノザ無神論者だからキリスト教的である筈がない」と言われた云々、と述べている点については、もちろん誰もそんなことは言っていないので、事実誤認として責められていいところではあるけれど。野嵜氏自身がスピノザ無神論者って言ってるわけじゃないし。
 
 ちなみにうちの日記でのhttp://www.cc.u-ryukyu.ac.jp/~michita/reading/2000-07a.html#kida00へのリンクについては、

 時間にして数百年から二千数百年、地域もヨーロッパに収まらないほどの幅があり、その時々の政治・軍事・経済状況とも相互作用しながら紆余曲折で変化してきた宗教哲学の歴史をただ乱暴に「キリスト教的」というひとつのフレーズでまとめてしまうのは、哲学史に対する冒涜だと思うんだけど。和製ライトファンタジーじゃないんだから、ギリシャ時代とローマ時代とヨーロッパの中世・近代の区別はしようよと。サイトの記述を読む限り、プロテスタントの意義もあまりに一面的に捉えてるようだしね。どこかの文学者がひとつの視点として書いたものをただ全面的に丸呑みしてるだけなんでしょ、どうせ。総合的な観点から学術的に考察するということが致命的に出来ない人なんだな。文学屋の記述ばかり読んでるから、哲学史的な知識が身につかんのじゃないかなあ。

 の「ひとつのフレーズでまとめてしまう」「哲学史に対する冒涜」って、それハイデガー哲学史木田元を通じてしか知りませんが)じゃん、とちょっと思ったのでメモっといただけです。学術の府たる大学で教えられてますが何か、哲学史的な知識の問題にしちゃうのはなんか違うなとか、強いていえばそういう気分はなくもねえですが、強いて言えばだし。でスピノザの話に関連付けられたのは完全な想定外。
 
 あとhttp://d.hatena.ne.jp/imaki/20061229#p3については、高橋さんが「オーソドックスな図式」(http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20061229#p4)とか言い出したのが引っかかったので。それがなぜ現代日本でオーソドックスなのかといえば、日本ローカルな事情ってもんがある。「この枠組は、実は日本人が西洋哲学を本格的に学び始めた十九世紀末から今世紀初めにかけてたまたまヨーロッパで支配的だった見方にすぎないのです。」
 まあ、それなりに「偏った立場」である、とそちらがご承知なら、まあそれならそれで。