コードギアス#1再視聴

 何アニメかと問われれば俺には大河内一楼アニメである。「内側にも梯子つけておけよ」とかそういうセリフがたまらんのである。ほら、ちょっとゲイナー・サンガみたいでさ。で以下は大河内一楼が富野ゼリフを自家薬籠中にしているとかそういう前提があります。
 富野キャラはみんな、ひとりごとを言っているのである。そう喝破したのは北野太乙だ*1。誰もが自分のために、自分自身に確かめるように喋る。それは確かにモノローグなのだが、しかし事実として確かに交換される。べつのいいかたをすれば、他人のことばの「意味」とは、それを聞く者に不可避的に訪れる、記述的に最後のものである*2
 というのを例えばC.C.とルルーシュの「契約」のシーンを見ながら思ったのだがどうか。それで結局C.C.は名前を呼んで欲しかったんでしょうか、願いをひとつだけかなえてもらう、と交換条件を出してましたが。
 
 初期衝動。ルルーシュはまるでスザクのために「ブリタニアをぶっ壊す」と宣言しているかのようね。スザク、僕は、ブリタニアをぶっ壊す。うなだれる親友の姿が我慢ならないように、あるいは目の前の理不尽が許し難いように。(普通ならば逆なのだ──日本人であるスザクこそがブリタニアを憎むべきだし、ブリタニアルルーシュはうしろめたさにうなだれるところだ。)
 これが#9あたりで、なんか「自分とナナリーの安住の地を壊されたから許せない」みたいに言語化されてしまっていて、気に入らない。あるいは、当人による言語化ほどあてにならないものはない。具体的には荒山徹が「作品に伝奇色を持ち込んだのは、歴史に関心の薄い今の読者が手に取りやすくするため。本当の狙いは、日本とコリアの密接な交渉史を知ってもらうこと」と語るようなものである。そういえば富野由悠季はザンボット3のテーマを「親離れ」と語っていた(『二十年目のザンボット3』)
 もちろん、ルルーシュが嘘をついている、といいたいわけではない。かといって、自分に言語化できる動機など多寡が知れている、と言ってしまえばルル様に失礼だ、さて、どうしたものか。

 ルル様を崇拝すればいいんじゃないか、という答が出ました。あるいは全肯定。堕花雨のごとくあるいは『坊っちゃん』の清のごとく。これを自分の力で製造して誇っているようで気味が悪い、と述べた漱石はさすがに文豪です。別の言い方をすると、ルル様は自分ではああ言ってるけど「本当は」もっと複雑なはずだ、と述べるときに、ひとはキモくあることを恐れてはならない/承知しておくべきなのです。

*1:「『トリトン』の生々しさ――純粋反応体としての富野由悠季――」、『富野由悠季全仕事』。http://imaki.hp.infoseek.co.jp/old/g9905b.html

*2:『論研』2巻201頁、というか竹田青嗣『意味とエロス』からの孫引き。ttp://blog.goo.ne.jp/mizonuma5/e/1637f58b05df172854e5de676598f617参。