どうせ上野書読みゃわかることなんでいちいち書くのもアレだけど、超越的人格神の存在を認めない者は超越的人格神への信仰を肯定できるか、って話なら、つまり問題は「知識と信仰」だといえるわけで、そこで、無神論と汎神論の区別、とかやりだすとムダに煩雑になる。てかスピノザ限定なら、スピノザの神、で済むわけだし。どうしても気になるなら、上野書で言っている無神論とは広義の用法で、実際は汎神論なんだな、とでも思っておけばいい。

 例えば、神という唯一の実体を考えた、なら唯一実体説。現実はどこもかもが神でできている、という神を考えた、なら汎神論。
 で、ドイツ観念論の哲学者たちの説とは異質なんだよ、みたいな話をしたいときは、汎神論言うな、とdisっとくのが通例。
 

スピノザの思想史的評価については多くのことがいわれてきた。デカルト主義との関係、ユダヤ的伝統との関係、国家論におけるホッブズとの関係。初期啓蒙主義におけるスピノザの位置。ドイツ観念論スピノザ。現代では、アルチュセールドゥルーズネグリレヴィナスといった名がスピノザとともに語られる。スピノザはいたる所にいる。(上野修スピノザの世界 神あるいは自然』p12)

 汎神論、と呼ぶと、そのように名付けた当事者であるドイツ観念論(そして以降の汎神論−無神論の流れとか)との関連のみが、際立ってしまう。むしろ、そういう関連で話をしたいときに汎神論の語が選ばれる。
 で、例えば、デカルトスピノザライプニッツで近代合理論、とか、あるいは古代ギリシャ以来の「実体」論*1の文脈だと、唯一実体説が好まれる。たぶん。
 あと、汎神論(者)という語にはなんかロマンティックというか詩的というか神秘主義的な響きがあるので、そういうのがヤな時には避けられることもあるだろう。

*1:よく知りません。