片山憲太郎『紅〜ギロチン〜』

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680 名前:イラストに騙された名無しさん[sage] 投稿日:2006/07/25(火) 10:54:12 id:zbQn8Yq9
紅〜ギロチン〜

もうラーメン屋になれよ。ロリコン

唐突に片山憲太郎について語る

 紅真九郎と堕花雨には共通点があって、目覚まし時計では起きない。『紅』1巻および『電波的な彼女〜愚か者の選択〜』を参照のこと。理由はといえば魂なき機械に起こされるのが嫌だからであって、だから堕花雨は起床を促す妹の肉声にのみ反応するし、真九郎は仕方ないから一人で起きる。彼も本当は家族の誰かに起こされたいのだろうと思う。
 片山憲太郎を読むとはこの種の、(擬似)家族的というより家庭の幸福への憧れを共有することだといってよい。もう少し言うと、言語以前のコミュニケーションやら人間の体温のもたらす幸福への無邪気な信頼。膝枕。眠れない柔沢ジュウの手を握りに来る堕花雨。堕花光を抱き締めて背中をポンポンと叩く柔沢ジュウ。探せばいくらでも見つかるだろう、たぶん。
 同じくロリコン小説であるところの長谷敏司円環少女』と比較すると、『円環』が視覚的ないしシチュエーション的な面への言及が目立つのに対し、『紅』において目立つのは肉体的接触である。背負った紫の子供特有の体温の高さを感じるとか、鼻をつまんでむずかられてしまうとか、頭を抱きかかえられるとか抱きつかれるとか膝枕をしたりされたり、まあそういうあれ。というか片山憲太郎の主人公は驚くほど無雑作に女の子に手を触れるね。
 一言でいうと母性への憧れってことなんだけど、こういうのはたぶん。「自然性と肉体性を基礎とした温かな一体感」。自然で自明で意識以前で言語以前の。憧れというのはつまり、それが常に「既に失われたもの」として語られるからで、もちろん片山憲太郎の主人公たちは、自分たちにはもはや失われているということを受け容れてもいれば、自分より年下のガキ共にこそ優先的に与えられるべきだとも考えてもいるのだけれども。