柴村仁『わが家のお稲荷さま。』(5)

 昇はそろそろ自分が三槌の当主だということを忘れていて(まあ最近知ったばかりだけどそもそも)、つまりそれはクーがなんでここにいるのか、ということも忘れているということになるわけで、それで昇はクーに謝るんだけど、狐のほうはけっこう愉快そうにしている。忘れ去られることは実はけっこう気持がいいのかもしれない。

 えーと。一波乱はあるんだけど、過去の因縁や外部の襲来に起因するでもなく、日常を構成するちょっとした事件、ってやつです。小粒感は否めませんが、別に大したことが起きなくてもいいと思う。
 起こるべき事は全て既に終わっていて、その事だけが確認される、というのはもっとも気に入っている『狐。』評のひとつなのですが、その言い方を借りれば、語られるほどのことは特になく、、妖怪がらみの騒動もいちいち語るほどでもないような日々の一齣に収まるので、惚れた腫れたの騒動のがよほど重要である。でないといいかげん佐倉っちが不憫ですし。
 そういう基本ラインは支持。ただもうちょっと無駄な描写が欲しい。そんなとこ。