『AIR』TV版 #12

 そらの飛翔が随分と力強い。小野大輔の確信に満ちた語りもあり、前向きである。あの日の少女の背中を追いかけたりしないし、空が恐いわけでもない。「そら」の語りを原作と比較してみよう。アニメ版はこう。

そして、いつしか僕は空を見ていた。
いつだって悲しみの色をたたえていた空。
限りなくどこまでも続く蒼。
その無限へと還ってしまった少女。
今もひとりきりでいる少女。
だから僕は彼女を探し続ける旅に出る。
そして、いつの日か彼女を連れて帰る。
新しい始まりを迎えるために。

 で原作はこう。

そして、いつしか僕は空を見ていた。
いつだって悲しみの色をたたえていた空。
彼女はもう地上にはいない。
この空の彼方にいるのだ。
悲しみの正体は、それだった。
ずっと空に向かって、彼女は生きていたのだ。
限りなくどこまでも続く蒼…
何も終わりを知ることなく、続いてゆく世界。
その無限へと還ってしまった少女。
今もひとりきりでいる少女。
だから僕は彼女を探し続ける旅に出る。
そして、いつの日か僕は彼女を連れて帰る。
新しい始まりを迎えるために。
果てのない旅路に思えた。
どこまでも空は高く、限りがない。
ずっと恐れていた空。
飛べるだろうか。
彼女と一緒に飛ぼうとした空。
今も恐かったけど…
でも飛べる。
そう信じる。
飛ぼう。
僕は駆け始めた。
あの日の彼女の背中を追って。
翼を広げて、地を蹴る。
初めて、両の翼が風をつかんだ。
体が浮く。
腕に力をこめる。
しっかりと風を受け止めて、羽ばたく。
どこまでも、どこまでも高みへ…。
帰ろう、この星の大地に。

 原作そのままやると長すぎるのは確かだが、原作のフレーズに忠実にやろうとするあまり、編集による印象操作じみたものになっている。アニメ版は随分と健全で前向きにすぎやしないか。薄っぺらいって言ってもいいけど。
(追記:原作での「どこまでも、どこまでも高みへ」というフレーズは、われとわが身を滅ぼしても無限の高みを目指す、半ば死を希求するがごとき衝動(『かもめのジョナサン』や『よだかの星』的な)でもあれば、「あの日の少女の背中を追う」という過去ないし無時間的な志向を含むものだったはずだ。)
 べつのいいかたをすると、観鈴と一緒に飛ぶ練習とかしてないので、カラスさんが飛び立つためのモチベーションがありません、または足りません(#10以降のそらは基本的に「おかあさん」という語を廻るのみであるように思います)。空や無限への恐れ、との葛藤もない。そんなわけで、そらを飛び立たせる機能を晴子さんひとりに押し付けてしまうと、晴子ミュージカルのできあがり。ということなのかしら。

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 余談。ええとね、理解者には常識かもしらんが、『AIR』の「空(「無限」)」は、『ONE』の「永遠(の世界)」に似てるのね。言及のされ方が。物語の当初はそういう、無際限・無境界なもの、あるいは無際限さ、は憧れの対象だったり癒しをもたらすものだったりします。しかし、物語が進むにつれて明らかになるのは、そういう無際限さは、われわれが人間の身(あるいはカラス)である限り、悲しみや苦しみでしかない、ということですね。
 個人的には、そらの飛翔は「無限」への異議申し立てであり、少年のいう「始まり」とは「無限」の終焉を目指す宣戦布告である──そんな印象があります。こういう言い方だとちょっと強すぎるんですが、たぶん「永遠の世界」をわれわれが肯定できないのに似た感触がある。あと関係ないけど、『CLANNAD』の幻想世界は最初から「悲しい世界」として出て来るのがちょっと面白い。