『AIR』TV版 #6(その2)

 原作と異なり、往人が駅前に来たのは、発作を起こす観鈴から逃げ出したためだ。そして美凪と往人が笑い合う声を、観鈴は隠れて聞いている。何しろアニメなので、往人の視点からは見えないものも登場させることができるのである。
 なぜか往人はみちるからに「空にいる少女(の悲しみ)」について聞かされるたびに、観鈴を思い出すことになっている。いつのまにか、空にいる少女=観鈴というイメージで進むので、あたかもみちるの言葉に背中を押されるように、観鈴のもとへ帰ってくることになる。(作中の事実関係ではなく)カットの繋ぎから受ける印象としてはそのように思える。ところで美凪がいろんな服着るのは(今回に限らず)良い。愛されてるなあ。

 記憶によれば、放映当初のアニメージュ別冊のインタビューで、たぶん志茂文彦だったと思うが、「AIRは恋愛要素抜きでも話が成り立つので一本化しやすい」といった意味の発言をしていたように思う。そう聞くとうっかり納得しそうだが、これは単に失恋を描かずに済むという程度の話である。過去の例からいって、ギャルゲーを一本の物語に仕立て直すにあたって恋愛要素そのものが障碍となるとは考え難い。サブヒロインに失恋させればそれで済むからだ。例えば、メインヒロインが病気になる→一緒にいられる時間が減る→そのあいだにサブヒロインと接近、というTV版AIR美凪と同様の処理を行うアニメ版D.C#23「素顔の告白」では、白河ことりはきっちりふられるのである。ついでにいえば、どちらかといえば家族愛のほうがメインである、という点も両者は共通するだろう。

 あくまで観鈴に意識を残しつつ美凪エピソードを消化する、という離れ業にそれなりに成功しているのは見事、と評するにやぶさかでないのだが、おかげで往人が場合によっては美凪といっしょに町を出てもいい、と言ってもちっともリアルに感じられないのでした。これに限らず、原作には恋愛というフォーマットに沿った表現があるので、恋愛要素を排除する以外の処理を怠ると、単に浮いたシーンがいくつかできあがってしまう、という点はあまり気にしていないようだ。もう少しだけ頭を使ってくれると嬉しい。

 美凪が「おかあさん」と呼ぶ声はとても小さいのだけれど、にもかかわらず母親がはっきりと気付く、というのはけっこう好き。ゲームだと往人が居合わせないのでそのへんの機微は表現できないからね。

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 それにしても、時にいちいち「面白い風景」を選んで撮っているようになるところが気に食わない。