学園/アジール

《人間をその出自からも、身分からも、階層からも、信教からも解放し、その差別意識を廃し、知的閉域からの自由を得させるための「逃れの街」、「アジール」であるというのが学校の重要な社会的機能の一つではないのか。》(http://blog.tatsuru.com/archives/000761.php

 『GOSICK』については、どんな存在であろうとそこではタダの一生徒にすぎない、という話を以前に書いていて、それを思い出したのだけれど、われわれの言葉では、上の引用でいわれている「学校」は、むしろ「学園」と呼ばれるべきものである。
 吉野源三郎君たちはどう生きるか』でのコペル君と水谷君と北見君と浦川君、あるいは『ハリー・ポッター』での、ハリーとロンとハーマイオニーが親交を結ぶあたりを思い出していただきたい。学園内にも差別意識は根強いが、それでも、相手が有力者の子弟であろうとなかろうと、付き合う相手は選べる。かりにかれらの親が「有力者の子弟と仲良くしなさい」と命じたとしても、少なくとも学校の中ではどうすることもできぬ。学園=アジールについては大塚英志が『少女民俗学』あたりで書いていた、という気がするが、僕にとって『GOSICK』という作品が好ましい一因は、あの学園がそうした「逃れの街」に見えるからにほかなるまい。「あなたが何者でもかまわない」、というのはやはり、古くからある愛のことばでありますれば。王子さまだろうと海賊だろうと悪い魔法使いだろうとカエルだろうと。