ビートたけし『仁義なき映画論』より

 発掘したので引用します。


尾道ロケってことで、絵葉書のようなカットがいろいろあるけれど、あんな景色にオレは、なんの魅力も感じない。映像に対する感覚がオレと全然違う。(……)オレが今撮っている映画もほとんどロケだけど、どの町と特定できるような風景なんてほとんどない。
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 町があって、町の中で人物を動かすとき、こんないい町なんだよって見せる監督と、人物にしか関心を持たない監督とに二分されるわけで。オレは人物がいるところに偶然その風景が入っただけって考え方。いい背景を選んで、そこで人物を歩かそうか、などとはちっとも思わない。
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 もともとの話、オレの映画観と共通するものがない映画だから、何を言っても水掛け論だけど、もうひとついうと、この映画、映像はきれいだけど空気が感じられないんだな。オレからすれば、いい映画って空気が来ていると思うんだ。それがね、これは真空パック入りの映画って気がするもんな。ホントは実際にあるものをあるがままに撮れば感じるはずなんだ。
 映画って作りものだし、いろいろ人間や物を加えたりなくしたりできるから、つい余分ができてしまう。その余分ができると空気が消えたり変質したりする。余分というのは増えるだけじゃなくて、減る場合も含めての余分なんだけど、その余分がこの映画には多過ぎるんだよ、きっと。だからオレの感性では空気が感じられなかったっていうこと。
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 少し気取っていえば、名前のない風景、意味のない景色の中で人物は動いていて、人間もまた意味のない人生を生きざるをえなくなっているんじゃないか。ただ空気はしっかりと感じられるけど、ってところかな。》(ビートたけし『仁義なき映画論』)

 なんか、TV版AIR#1の感想にそのまま使えそうだ。僕の映画(アニメとかも含む広義の)観と共通するものがなくて疲れた。