虎はもともと強いのだ(『花の慶次』)

http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20041222#p1
 まあ、いずみのさんのところ(含コメント欄)でだいたい言いたいことは言われてしまっているのですが。コメント欄に書き込もうとも思ったけど、記憶に頼った話ばかりなのでこちらで。

 けっこう以前にも、ハリポタと『ヒカルの碁』について全く同じような論調で触れている新聞記事がどこかにあったような。

 「努力の過程」の不在、については夏目房之介による『リングにかけろ』評がありますね。『消えた魔球』でしたか、プロセス不在の、結果から始まる感動の大量消費、といった。例えば『アストロ球団』だと新必殺技を身につける修行のシーンがあるんだけど、後期リンかけだと「できたぜ」って言うだけで済む。まあ後期アストロも、修行過程が描かれない新打法のひとつぐらいはあった気がしますが。

 たぶん話型としては主人公は「生まれながらに最強」である方が古くもあれば普遍的でもあるはずだ。ヘラクレスとか。講談の宮本武蔵も最初から最強で、これが努力するようになるには吉川英治を待たねばならない。主人公が努力によって天才型のライバルに勝利する、という話型のほうが特殊なんじゃないかと。

 例えば、「天才型のライバル」とは高度成長期の日本にとっての「先進諸国たる欧米」(その先進性は日本からすれば天与のものとしか見えまい)であり、努力して勝利する主人公とは、経済成長期の日本のセルフイメージである、とはいえまいか。そうしたライバルってのはおおむね、デカい洋館に住んでてナイフとフォークで食事している生まれながらの金持ちであるはずだ(このあたりも夏目房之介が『あしたのジョー』論で触れていた気がする)。ちなみにこれを敷衍すると、天才の主人公が勝つ話ってのは、先進国たる日本が既得権益をどこまでも保持する話ってなるわけです。いやもうこんなの何とでも言えるよ。あとフィクションにおける「努力せずに得られる力」の代表としてはウルトラマンとサイボーグと巨大ロボットが挙げられるのだけれど、これは現代とはべつに結びつかない。

 まあ、作品名と時代状況を関連付けて語る、という行為がそもそも疑問だったりしますが。いや江藤淳『成熟と喪失』は大好きだけど、そこにどれほどの真理性が含まれているかといえば、真理とは主体性のことである、といった類の真理である、というよりほかになく。