坂口安吾『堕落論』(角川文庫)

 またぞろ「不良少年とキリスト」ばかり読んでいる。よく考えるのは、あまりよい趣味とはいえないかもしれないが、たとえばの話、こいつを読んでいい気になっているときに、実際に知人の訃報が届いたらどうだろう、とかそんなことだ。それこそフツカヨイ的か。がたぶんそういう思いがけない事態のことを、いいかえれば気楽な悩みに逃げさせないようなものを、逃げてしまえば見失われるものを、あるいはそれを「逃げ」と見なすことを可能ならしめるものを、安吾は「人間」と呼んでいるように思われる。藤村も漱石荷風小林秀雄もそんなふうに批判される。

 太宰の死は事故みたいなもので本当に死ぬ気はなかった、なんて言われたりもするのだけれど、むしろ、本気だったとしても自殺(心中だが)に成功するとは事故のようなものでしかあるまい。そこに死なねばならぬ必然などあるものかよ、と安吾は言いたげだ。筋を立てていたからといってその通り死なねばならぬものでもあるまい。残念なことは、かれが死に損なわなかったことにこそある。今ちょっとそんな気分なんです。

 《安吾はいつも「人間」について語る。しかし、その「人間」は人間学的なものではないが、フーコーが「人間は消滅しつつある」というあの人間でもない。「人間は変わらない」という安吾の「人間」は、構造ではなく構造以前のものだ。それは「他なるもの」の経験そのものにほかならない。安吾が「人間」と呼ぶものは、「ふるさと」という時と同じように、つねにわれわれの自己同一性をおびやかし突き放す「他なるもの」、他者の他者性を意味しているのである。》(柄谷行人「死語をめぐって」)