『Rozen Maiden』#1〜#3

 何かと幸せ。具体的にはメアリー・ポピンズが来たぐらい。叱られたい。

 真紅は声といい口調といい随分とお姉さんみたいである。ジュン君にはお姉ちゃんが既にいるのだけれど、この姉弟はといえば大人のいない家で子供二人で途方に暮れている、という図にしかならないので、真紅が来てようやく、子供を叱ったり説教したり理不尽な命令を与えたりたまに誉めてくれたりするひとが存在することになる。

 #1、真紅の「紅茶を淹れてこい」という命令はジュンを経由してお姉ちゃんにパスされ(つまりお姉ちゃんはジュン君に紅茶を淹れてあげているつもりになっている)、お姉ちゃんの「紅茶おいしい?」に対するジュン君の返事はこっそり真紅を経由していたりする。そもそも「紅茶を淹れてこい」というのは、ドアノブに手が届かなかった真紅の気恥ずかしさをはぐらかすために出てきたようでもある。ここで、ひきこもり脱出アニメという趣向に多少沿ったことも書いておくと、

《分析医のところに来る患者はある意味で「石化」している。患者は経済活動ができないか、コミュニケーションができないか、愛を成就できないか、(レヴィ・ストロースの言う)「交換の三次元」のどこかで停止している。》
《だれかが「心を病んでいる」。それは要するに、その人が「経済活動に参加できない」か「意思疎通できない」か「愛を交わすことができない」か、そのいずれかに相当する。だから、治療とは、停滞しているコミュニケーションを再起動させること、つまり、受け取ったものをすり替えて、つぎの人に手わたすという流れに再びその人を巻きこむこと以上を意味するわけではない。》(難波江和英・内田樹現代思想のパフォーマンス』、内田樹ジャック・ラカン」)

 コミュニケーションを再起動させる、というのは、たとえば「心を開かせる」ということではない。それはコミュニケーションの結果であって原因ではないから。メアリー・ポピンズにしろトラップ一家にやってきたマリアにしろコタロー君の隣にやってきた美紗さんにしろそうなのだが、必要なのは、ひっかきまわすこと、かきまぜること、とにかく何かが交わされる状態が生起し継続してしまうことだ。紅茶の味を問われて「少しはマシになった」とは意味を考えれば決して誉められた返答とはいえないのだが、なによりも返事を返したことについて真紅は「いい子ね」と誉める。というか俺も言われてえ。あと「落ち着きのない子ね」とかも。

(追記)
 ちなみに内田樹は「こぶとりじいさん」を例にとって、「理不尽に選別されること」「この世には、自分が生れるより先に、自分の預かり知らぬルールがあること」それ自体を伝えるおはなしの普遍性についても語っています。成熟とは、まずそうした事態を認識することです。
 ジュン君がアリスゲームに巻き込まれるくだりについては、原作よりも理不尽度が増していて、ただ誓うのか誓わないのか(それ以前に「まきますか/まきませんか」というのもあるわけだが)といきなり選択を突きつけられる。ルールを知らされるのは、ゲームに巻き込まれた後です。最初に誓う時点では、たとえば「ローザミスティカを守るため」とさえ告げられない。