メールマガジン不連続な読書日記No.260が届く。そこに大澤真幸「家族の排除──若者犯罪の背景」(『ESP』9月号)が引用されていた。以下はその孫引き。

 現在、若者たちの間で人気の、恋愛物のアニメやゲームは、物語的な展開の豊かさを徐々に削ぎ落としつつ、きわめて高い確率で、一つの設定を共有している。恋愛する若い男女は、しばしば幼馴染みなのである。現実に、幼馴染みの恋愛や結婚が増えているとは思えない。たとえば、地縁的な共同体の中に深く組み込まれていた「家」があった時代の方が、幼馴染みは結びつくことは多かっただろう。なぜ、今、幼馴染みなのか? そこに投影されているのは、親子の関係よりも原初的で直接的だと感受されるような関係だからではないだろうか。無論、現実の幼馴染みの関係は、親子関係よりも後に成立する。だが、なぜか理由もわからず、生まれたときから近くに住み、仲良くしているという設定は、家族の関係にさらに先立って作用している、不可避の宿命の作用を、人に感じさせるものがないだろうか。

 こうして、われわれは、冒頭に掲げた、河内長野市の事件の謎に迫っていくことができる。彼ら、恋する「幼馴染み」が、「心中」するにあたって家族をまずは殺害しておかなくてはならないと考えたのは、彼ら同士の関係の上に投影されている極限の直接性に到達するためには、どうしても、家族の関係が排除され、無化されなくてはならなかったからではないだろうか。彼らの関係の上に、あらゆる経験的な関係を越えた原初的な直接性を感受するためには、彼らを生まれたときから捕縛している家族の関係を、偶有的でどうでもよいものとして捉えなおし、実際に排除してみる必要があったのであろう。

 幼なじみだの「物語的な展開の豊かさを徐々に削ぎ落としつつ」だの、いったい何年前の話だ、という気がしなくもない。「現在」ならせめて新伝綺とか。といいたい気もするが、単にギャルゲー(とライトノベル)が先端的に過ぎるともいえる。でも確率でいえば幼なじみの登場する作品は多いかもしれないが(もっとも「義理の妹」や「メイド」や「単なる同級生」と比べて有意に高いといえるかどうかは甚だ疑問だけれど)、幼なじみと恋愛することは少ない。『To Heart』なら1/9。Kanonなら1/5。といいたいところではあるが、幼なじみがしばしばメインヒロインないしそれに準ずる位置に据えられることは、否定しがたいかもしれない。

 だが、家族の排除など昔からありふれているのではないか、と問うことはできよう。物語の削ぎ落としも、仲良しであることの理由が問われないことも。たとえば少女マンガ。

 家族が終わって、物語が始まる。
 もちろんその物語は「タイムマシン」を起点としているのに違いない(それは違えようもなく「タイムマシンを巡る物語」であるから)。すべてはそのたった一回の事故(アクシデント)から始まっているのだし、物語はずっとその偶然(アクシデント)を抱え続けるという時間なのだから。
 けれどその「語り始め(開幕)」は、いつもの通り(そう「いつもの通り」だ)、「家族」がすっかり片付けられたことから始まる。唯一の肉親、「じっちゃん」の死。
 けれど「家族」の後にやってくる物語なんてどんなだろう?
 振り返れば、これまで一度だって、「物語」はなかった。両親ははなっから「転勤」でどこかへいってしまっていて作中一度も姿を表さなかったり、あるいはそろってとっくの昔に死んでしまっていたり、自分の方が家を出ていたり、とにかく「家族」が片付けられた後にやってきたのは、いつも「日常」だった。まるでそれは「血縁」だけ欠いた家族のようだった。だから「彼ら」(そうだ、「彼ら」だ。「彼ら」はいつも「家族」みたいで、一人であったことがない)は迷うことなく、帰れる場所をいつでも指し示すことができたのだ。
 彼らは「はじまりがあった」ということを欠いている。彼らの「現在への郷愁」はいつも決まってそうだ。絶えず喪い隔たりながら、でも「ずっと以前からこうしていたような気がする」と彼らは繰返し言うだろう。それが、彼らがこうして共にいる「根拠」となるのだ。(SoWhat

 誤解のないように言っておくと、上記引用の論はつづけて、『So What?』がいかにそうした状態に対し批評的だったかを説くものだ。

 ところで、「親子の関係よりも原初的で直接的だと感受させるような関係」や「あらゆる経験的な関係を越えた原初的な直接性」みたいなことはよく考える。例えばシスプリ。あれは妹萌えも下火になったころに登場したが、他の妹キャラと一線を画すのは「親子関係抜きの妹」だという点だ。大澤真幸のいう「幼なじみ」の完成形はむしろ妹にあるといっていい。
 一方で、Tacticsのギャルゲー『ONE』(1998)がすでに「幼なじみ」の「起源」への疑惑を作品内に亀裂のように紛れ込ませたすぐれて批評的な作品であった(参考)ということは忘却すべきではあるまい。