http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200403.html#11_3
>ところで、猫の話してたはずなのに、どうして他作品の登場人物たちの運命について見解を述べなければならないのでしょーか。一緒くたにしていいものなんですかね。


 そーだね。つまらないことを訊いて悪かった。さすがに個別に好き嫌いを並べられても。
 まあ一緒くたにするというわけではなく、類似した事例(つまり不適応と夢の結びつきとか、別の可能性を呈示した上でしりぞけるとか)との同一性と差異を検証することによりflurryさんの苛立ちの正体と正当性についての知見を増すというか適当にカマかけただけともいいます。てか『白鯨』132章あたりは『猫』と比較したくならない? なりませんかそうですか。


 そんなこと元から言ってませんか。そりゃそうだろうけど。ええと、語義解釈としては「当為ないし価値判断、反語」あたりで。
 夢が反社会的なかたちで叶えられる(ほんと言うと、『猫』における夢とは叶えたり追い求めたりするようなものじゃないんだが)ことは構わないが、ただ最初から夢と不適応が結び付けられるのが気に食わない、という話でしたっけ。


 ええと、意図がわからないって書いたけど最近のほうについてはそれなりに推測がつくので(外れてるかもしれないが)言っておく。夢と不適応をあらかじめ結びつけるのがけしからんとか、そういう例ですよね。
 手塚治虫は、否定してみせるのに都合がいいから、世界一という願望を、世界中の有名ロボットを破壊して回るという蛮行にあらかじめ結びつけてみせる。これが欺瞞と呼ばれるべきなのは何らかの正しさなり真理なりを偽装しているからで、でなければ(つまり、作品がそれに正しさの地位を与えていないことがらに対しては)欺瞞という指摘はあたるまい。作家がそれを、耳を傾けるべき「真理」や「リアル」として述べていないならば、それに文句を付ける意義はどこにあるのか。坊主の講釈はもとより詭弁ですが何か?


 「現実」はつまり「可能性」に対して持ち出すのに坐りがいいから採用した語です。そちらの言葉遣いだと、「可能性」に対しての「実際には」になりますか。べつに「書かれてしまったものと、いまだ書かれていないもの」でも構いませんが。


 jagarlさんの文章を持ち出したのは不適切だったと思う。単に、『オメラス』ならともかく『猫』で、なんで社会とかそのへんの話になるのかよくわからないってだけですが。ガンスリ話で公社の組織論聞かされてる気分です。なぜ、その問題系がその作品を語る際に採用されねばならないのか、というあたりで引っかかってた。このへんは最近なんとなくわかってきた気がするので特に説明してくれなくてもいいです。