http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20040219#p1
 まあ、実をいえば厳密には区別できるようなものでもないし、結構どうとでもいえてしまう。スタイナーだって厳密には区別できていない、というかしていない(と思う)。《きちんとした抽象的定義はどれも無意味でしかないだろう。「悲劇」という言葉を使う時、われわれには何の話をしているのかが分っている。正確には分っていなくても、少なくとも、ほんものの悲劇をそれと見分けられる程度には分っている》と来る。まあ悲劇については実際そのとおりなのだけれど、ところで僕にいえるのはせいぜい『イリヤ』と『猫』では随分と話が違っているように思われる、ということぐらいだ。
 しかし、《われわれが注意しなければならないのは、「ずっとサナトリウムで育った余命一ヶ月という女の子」という設定をしつらえているのは秋山本人だということです。》なんて言っておいて、災厄の原因ではなくそれへの処し方に話を持っていくのはどうよ?
 気にするべき点は、設定をしつらえているのが作者だなんて当り前の問題じゃなくて、たとえば「悪」を一方的に世界の側に背負わせるような描き方(つまりは「世界がもうちょっとましだったら」と考えるだけでよくて、「もし彼が彼でなかったら」という地点まで後退を強いることがない)であるように思えます。

 『イリヤ』についていえば、結局は悪いのは世界で汚いのは大人で、浅羽は何をどうしようがあらかじめ免責されているような気が。