http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20040210#p2
「物言いの粗雑さ」とは初耳だ。またぞろ《「政治家がして當然の事」と言つてゐるのに、「野嵜が主張してゐる事」に話を歪曲してゐやがる。》に戻るのかねえ。
 野嵜氏は「しよう」とは言ってないから。そこには、読み手による、事実ないし推測を当為と読み替える詐術があるか、書き手による、事実ないし推測を語ることにより当為として流通させる詐術があるか、それとも単に誤解なのか、どれとも決定不能か、といったことになろう。
 思い出した文章がいくつかあるので、貼っておく。特に意図はない。

たとえばMUSTを「〜であるにちがいない」としてではなく、「〜しなければならない」という風に読んでいくこと。これが「テツガクショ」を「ハウツウもの」に読みかえていくマジックです(もちろんクラウゼウィッツはドイツ語で書いてるので、これはウソですけど)。クラウゼウィッツが「これからの戦争は、誰もが投入した戦力に見合うなにものも手に入れることのできない絶対戦争となるにちがいない」と書いているのに、軍事理論家たちはそれを「これからの戦争は、絶対戦争(国民総動員、全面対決な戦争)を行わなくてはならない」と読みかえていったのです。たかだか、「そのように生きた人があった」と告げるだけのことばが、例えば「人はこう生きなくてはならない」と読みかえられていくように。

そしてこの「当然」から「当為」へは、「〜するのがあたりまえ」から「〜すべきだ/〜しなければならない」へは、ただの一歩もい らないくらいです(「あたりまえ」なら、そうでないのは「おかしい」からです)。

 ただ後者の例において「ただの一歩もいらないくらい」なのは、「わたし(を含め人間みんな)がそうするのはあたりまえ」と「わたし(を含め人間みんな)がそうすべきだ/しなければならない」の主語が同一だからである。
 言い換えれば「政治家がそうするのが当然だ」という主張と、「わたしたちはそうしよう」の間にはけっこうな差がある(たとえば敵を知り己を知れとはよく言われるが、このとき「敵を知れ」というのは「敵ならばどうするのが当然なのか知れ」ということでもある。ここに味方が敵と同じように行動すべきだとかいった主張を読み取るのは誤りとなろう)。高橋氏が主語に無頓着であるのか、それとも主語の相違などに惑わされぬ慧眼の持ち主なのかは私にはわからない。

 なお、ファシスト呼ばわりについては以下の批判がある。
http://esu.oresama.org/200312a.html#20031201_s8