虚淵玄『Fate/Zero』

 昔mixiに書いた感想の焼き直し。ちなみにタイトルから内容に至るまでhttp://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/kaien/20080906/p2のパクリ。

 夜叉姫伝をヌルくした感じ──というかナスキノを陰惨淫靡方面にシフトして人情バナ強化、なんてのは単なる菊地秀行ではないのか。おまけにクトゥルーネタまで。戦闘機のやられかたがまんま『妖神グルメ』だし。あとライダーってキャラ配置的にはカズィクル・ベイだよね。どうでもよい。

 奈須きのこにとってリアルなのはあくまで彼岸とか超越(つまり「根源」とか「太元の一」とか『 』とか)の側であって、われわれの知る現実ではない。目に見える現実の背後に隠された神秘、こそが本来的なのだ。しかし虚淵玄のそれはラグーン商会のリアルだ。これじゃヒラニプラとロアナプラほども違う。
 なので、正しい魔術師・遠野時臣は空気と化し、そうでない連中はただひたすらに「人間くさい」振る舞いを行うことになる。人間くささとか人間的とか人間ドラマ、みたいなお題目が好きな人にはお薦めしておくよ。このヒューマニズムっぷりといったら!(ハイデガー的な意味で)。

 えーと、なんだその。奈須きのこってキャラクターの「人間性」に対してドライじゃん。といわぬまでも両義的*1な態度じゃん。登場人物をスペックの権化としか見てないような所あるし。
 で奈須きのこにとってキャラクターとはスペックのことであるならば、虚淵玄にとってはあの「文学的」きわまる「内面」のことであるだろう。心理や内面や個人的な過去の生活史からキャラクターの行為を引き出そうとする。それも徹頭徹尾、現代人的な感覚の範囲で説明可能な因果関係として。
 殺人鬼は殺人鬼だから殺人鬼なのであって(本質が実存に先行する──つまり、たとえ一人も殺したことがなくとも)、その殺人鬼性はキャラの内面とか心情とか個人的体験といった問題では金輪際なく、ただ設定と世界観にのみ接続する、という奈須きのこの資質を虚淵玄は理解しない。

 確かに奈須きのこにおいても登場人物の心情の描写はむろん大きな位置を占めるのだが、それはつまり、吹けば飛ぶよな儚い代物だからこそ愛しい、というのであって、物語を駆動する上では(ほぼ)無力。そもそも、百年に満たぬ生活史で築き上げた「個人」の「人格」やなど、世界にとっては何者でもありません。個人とは集合的無意識の被った仮面にすぎない、みたいなノリ。
 だから人は、設定やスペックやアイテムに支援されなければ何の役割も果たさない。彼が何者であるかは先天的にほとんど決定されており、現実の事象の推移に影響を及ぼすのは現実の因果関係ではない。なぜならこの現実は水に映る月のごときものであり*2、人の自我なぞチーズに生えるカビのよーなものだからである。あなたがわたしの鞘だったのですね、でなければセイバーと士郎の恋愛は成り立たない。またぞろ『空の境界』を持ち出せば、「未来福音」において、未来視の能力者の善悪を決定するのは彼の人格ではなく未来視としてのスペックの質的相違である。また、なればこそ逆に「矛盾螺旋」では、一個人としての「逸脱」が、主題として可能になるわけですが、それにしたところで当人の意志や努力によるものではない。

 いっぽうで『Fate/Zero』はといえば、英霊含めてどいつもこいつも近代人、としか言いようが無い。キャスター組の「信仰」はよかったけど、最終的には「要は個人への愛着なんだろう?」で済ませるのが台無し。

 征服王。イスカンダル個人の人格がその存在本質を規定し世界に影響を及ぼす、というあるいみ正しい英雄、かれという人格が征服王を征服王たらしめている。が、かの英雄王についていえば、彼がああいう奴なのは「人類最古の英雄」であることからの帰結であってのその逆ではないはずだ。

 切嗣。ゲーム本編ではまるで「人間」とか「人類」といった観念に欲情するヘンタイ、として語られた切嗣が、「悩みつつも苦渋の選択を下すひとりの人間」みたいな凡庸な人間像にランクダウンしてたのはがっかりで、これでは言峰神父も浮かばれまい。

 ランスロの妄執っぷりにしろ何にしろ、なーんでそんなに行動原理をわかりやすく説明しちゃうかねー。なんかこう、常識的に理解できる範疇でキャラを説明し尽くしたい、みたいな欲望があるかも。あるいは彼岸への嫌悪。抽象への不信。存在するのは具体的な個人への執着のみで、半径三十メートルの現実が全て。「超越」への志向なぞ、せいぜい無害な世迷言かシリアルキラーの戯言でしかない。あやまれ! 人類の行く末を憂えるあまりタタリと化したズェピアの旦那にあやまれ! あとネロ教授の何が好きって己の自我の消失を織り込み済みでやってるところであり、まあ、その、月姫まで持ち出すといよいよ収拾がつかなくなりそうなのでこのへんで。

(追記)
http://sto-2.que.jp/200504_3.html#27_t2

 僕は浦沢直樹のマンガを読んでると反吐がでそうになるときがある。
 例えば『PLUTO』の1巻の、異形の戦闘ロボットが老いた作曲家だかと暮らすエピソード。
 あれが僕には我慢ならなかった。 すごく嫌な気分になった。
 どうしてだろう?
 人間の、ひどく陳腐な部分を、丁寧に丁寧に、見せられているような。
 侮辱されたような気分になった。
 どうしてだろう? 

 ああ、うん、そんな感じかも。

*1:空の境界』文庫版の解説にそのような話があった気がしたがよく覚えていない。

*2:「現世に在る以上我らもまた水面の影の一つにすぎぬ」、三浦建太郎ベルセルク』18

『Fate/stay night』

・セイバールート
 BAROQUE。歪みを抱えたまま突き抜けましょうふたりで。
 あるいは井上陽水「あこがれ」。むろん竹田青嗣『陽水の快楽』的な意味で。憧れの対象は現実には存在不可能であり決して手に入らないが、だからといって憧れそのものまで否定さるべきかというとそうではない。怖いのは現実に裏切られることじゃない、裏切られたことによって自分を見失うことだ。
 ラストバトルの説得力がいい感じ。かの乖離剣はこの世界すべてに対して無敵の対界宝具であるが、例の鞘ときたら、ほかならぬこの世界からこそ隔絶した理想郷、と定義されるのである。誰にも手が届かぬがゆえにそのようであるような何か。字義通りの無可有郷。決して手に入らぬからこそ美しいものもある、と悟るにはこんだけの設定が必要なのである。
 ここで効いてくるのが、現実(つまりはこの世界)を凌駕する幻想、という設定である。逆にいえば奈須きのこは何やっても設定・世界観レベルでのフォローが入るので、設定に裏打ちされなければ個人の心情や信念など生き残れない。衛宮士郎は鞘でなければセイバーといちゃいちゃできないんですよ。
 それにしても他の二ルートが、士郎の歪みの矯正なり健全化、になっているのは気に食わない話で、そんなに衛宮士郎を治療したいのかとは思う。逆に言えば、それは衛宮士郎個人の生活史にしか基かない部分であるがゆえに矯正可能なわけだが。

・凛ルート
 すたんだっぷとぅざびくとりー。その向こう側に何もなくても構わないから。あるいは、その向こう側にたとえ悲しみが待っていたとしても。誰かアーチャーのために歌ってやればいいと思う。
 実際に間桐慎二を救っている凛こそが正義の味方だろう、という気はしなくもないのですが、きのこワールドにおいては本質が実存に先行する、ということを忘れてはならない。現実に何人殺そうがエセ殺人鬼はエセ殺人鬼であり、実際には一人も殺したことがない者こそが真の殺人鬼である。言い換えれば、殺される相手を抜きに「殺人」という概念が成立する。救われる相手を抜きに、「正義の味方」を語る。それが奈須きのこだ。
http://rosebud.g.hatena.ne.jp/cogni/20070117/p1

(……)Fateにおいては正義の味方を個人の問題として片付けざるを得ず、やさぐれ正義の味方アーチャーに対して士郎は「―――決して、間違いなんかじゃないんだから……!」という他人の否定という糞つまらん手法で自己肯定をして何ら自らの正義の擁立や補助をなんらしておらず、またVNの制限ゆえにだろうか、正義の味方として守った多数の無関係の人々のことをほとんど描いていないという時点で、Fateの正義とかいうものは正義ですらなく、キャラクターのために使われるただの補助概念としての正義(……)

http://www.ne.jp/asahi/otaphysica/on/column74.htm

「当たり前のことだが、「正義の味方」であるためには、正義を理解しているだけでは駄目だ。正義を実践しなければならない。士郎とアーチャーが戦って、両者めでたく正義を覚悟しました、では済まない。それは脳内正義ごっこ、自慰でしかない。アーチャーは士郎の分身なのだからなおさらだ。おまえらだけで納得しあってどうすんの。
 つまり、実際に他の誰かを救わばならないのである。

 ひとは理不尽な破壊と殺戮を繰り返しながら、自分を正義の味方だと信じることもできるし、多くの人々を現実に救いつつ、自身をこの世すべての悪だと断ずることもできる。自由な意志は選択するからだ。誰かを救うということは別の誰かを救わないということなんだ、とか悩む前に、救う対象として選んだ人々に責任がある、とは思わないのか。
 まあセイバールートの士郎を俺が好きすぎる、という話。割とありふれたアンチしか書けなくてごめんなさい。ところでこれって何か元ネタあるのかしら。

・桜ルート
 つまり、ジロー・キカイダー服従回路を植え付けました、みたいな話? ピノキオは人間になりました、めでたしめでたし。やれやれ。
 桜はわかりやすくしすぎた気がした。琥珀さんみたく、なんか他にすること思いつかないから謀殺でもしとくか、お嬢様は好きだけど、みたいなのと比べると。

その時から、わたしはようやく自分で動けるようになりました。
一番難しかったのは、わたしが動いていい理由を探すことだったんですよ。
人形は自分だけでは動けないんです。
ちゃんと操り糸とかゼンマイがないと、人間らしく振る舞えない。
わたしは秋葉お嬢さまが憎くもなかったし、シキ様も憎くはなかった。
こんな事をしたくなかった、というのも本当の気持ちなんです
でも、わたしにはそうする事以外にやる事がなかった。
そんな目的を持たないと生きていけなかった。
人形は、自分の意思じゃ動けないんです。

 琥珀さんかっけー。メルブラで彼女がアホやってるのを見るたび救われる気分です。
 まあ桜についちゃあ、士郎のおかげで世界とか他人へ悪意を向けるだけの健全さを獲得していた、みたいな読みもできるけど。
 他人を嫌ったり、他人に向けて悪意を抱いたりするのは相当に困難で、わりと意識的な努力が必要です。自分がひどい目にあわされたが故に誰かを憎む、なんて、きっちり自己を確立できた健全な人間だけに許された特権といっていい。経験的に言って、それが理不尽だと判断する術がない、というのはとても怖い。幼児虐待かブラック企業勤めの経験者ならわかると思うけれど。ちなみに僕はどちらも経験がない。クレア=バートンは己の受ける性的虐待について「苦痛ではなく、ただ理解できない時間が一日のうちにいくらか存在するだけだ」といったことを申しておりました。