杉井光『さよならピアノソナタ encore pieces』

 時はすべてを癒す。ナオと真冬がひっついてしまえば、女の子二人と男の子一人が失恋する勘定になる。だが恋が成就しなくても人は生きてゆける。愛してその人を得るのは最上だが、愛して得られないことはその次によい。別に? 好きなものは好きだから好きでい続けるだけだよ? とか、まあそんな感じ。
 
 さて一年前に完結した本篇に関しては、ナオの朴念仁っぷりというのはつまり、修羅場の回避──言い換えれば「いかに読者にストレスを与えずニヤニヤさせ続けるか」という技法の問題でしかない、と思っていた。もう一ついえば、こういうことでもあると思うがここではおく。ナオが人並みに敏感で、女の子たちがもう少し優しくなかったら、読者諸兄におかれましてはとてもニヤニヤしているどころではなかったろう。僕はとてもニヤニヤなぞできなかった。複数の乙女心が理不尽にスルーされ蹂躙され続けているというのに、それを陳列し眺めてニヤニヤする、なんて悪趣味の極みだ。
 だから、その鈍感さが真冬にとってのみ対してのみ向けられているなら、まあ許せる。一夫一妻制にとらわれた発想ってやつかもしれないけどね。もっとも僕は片思いの苦しさを主題として嫌いではないので、乙女心を並べて晒してニヤニヤしている連中とは、まあ同じ穴の狢であった。
 
 そんなわけで「ステレオフォニックの恋」に全部。男は自分がどうしていいかわからんときがいちばん面白い、と島本和彦はいった。恋は自分の気持ちがわからないときがもっとも愉悦に満ちている。未完成で片思いの、関係を結ぶのではなく孤立せる状態にあるときに。
 シリーズ本篇のユーリの扱いはけっこう不満で、恋敵にもならずあっさりナオミハーレムの一員になったあたりいかにもヌルい気はしたのだが、なるほどそういうことでしたかすみません、という感じ。難儀なヤツめ!
 そしてユーリという子供のことがたいへん気に入ってしまったので誰かどうにかしてください。自分の気持ちについても、他人との距離感についても、まるでわかっていないというか考えたこともないので、いま初めてそういうものに出会い、立ち竦んでしまうわけです。だから子供といった。
 ナオの家の風呂を洗ったりナオの臭いにつつまれて眠りについたりする幸福、とかそういう細部への妄想が止まらないのですがこのへんで。
 
 それはそうと「Sonate pour deux」。そういうのはナオミじゃなくてナルミの仕事だろ、と誰か突っ込んでないと寂しいので書いておかせてください。