うえお久光『ジャストボイルド・オ’クロック』

桂英澄の「箱根の太宰治」(『太宰治研究』1、昭三十七・十)によれば、昭和十七年夏、桂が太宰を訪れた折に聞いたことばとして、次の一文が草されている。

芭蕉は、わび、さび、しおりといっただろ。最後に、「軽み」ということをいったんだ。新しい芸術の進む方向は、この軽みだよ。剣道でいうと、りきまずにぽんときれいにお籠手をとる。あの感覚だね。苦悩が下に沈んで、澄んでるんだ。僕は音楽のことはよくわからないが音楽でいえば、モツァルトじゃないかな。〉.

 柳生宗矩は「居着き」を「病」と名づけた。その『兵法家伝書』にはこう書かれている。

「病気の事。

かたんと一筋におもふも病也。兵法つかはむと一筋におもふも病也。習ひのたけを出さんと一筋おもふも病。かからんと一筋におもふも病也。またんとばかりおもふも病也。病をさらんと一筋におもひかたまりたるも病也。何事も心のひとすじにとどまりたるを病とする也。」(勝とうと思い詰めることは病である。策略を使おうと思い詰めるのは病である。習得した技術をすべて使おうと思い詰めることは病である。先手をとろうと思い詰めるのは病である。相手の出方を待とうと思い詰めるのは病である。このようにあれこれ思い煩うのをやめようと思い煩うのも病である。なにごとも心がひとつことに固着するのを病と呼ぶのである。)(11)


 こちらこちらの感想を読んだらすっかり満足してしまったので、正直書くことがない。よいことである。少なくともボクにとっては。そんなわけで、さあみなさんご一緒に。僕たちはいつもうえお久光が必要なんだ!

 ミカルたん萌え。それにしても、また納豆か。
  野良カメラ、って単語がサクっと出て来るあたりがなんかもう、ねえ。野良カメラには権利(人権っぽいもの)が認められていないので、子供が壊して遊んだりするのである。てかそもそも、人間の形をしたバズーカ・ランチャーの家電、という概念を平然と流通させているあたりもいい度胸である。
 ところでこの「家電」てのは、ロボット工学の三原則へ向けられた評価を意識してるんでしょうか──というか思い出した。そういえば『鋼鉄都市』には、ロボットを家電に喩えるくだりがあった。C/Fe!

 それはともかく、ハードボイルドならぬジャストボイルドについて。たとえば『ヒジョウに真面目』と書いて「ハードボイルド」と読ませる。で、ジャストボイルドってのはこの場合、カタすぎないことであり、「ついでな感じ」と書いて「ジャストボイルド」とルビが振ってあったりする。
 また、別の言い方をすれば、深刻でシリアスな展開に「身を任せる」ならば、かれはハードボイルドだといわれるだろう。たぶん。

 だからたぶん──ハズれてたらゴメンね?──シリアスになりきらないのは、自分が自分であるためなのである。なぜならば、深刻にシリアスに振る舞う、ということは、「それらしいストーリー」での役割を忠実に果たすことだから。そして、深刻で重たい話というのはつまり、誰が聞いても深刻で重たい話だと理解されるような話であるから。

 堂島コウはいつも深刻な雰囲気に浸るのを嫌った。なぜならば、彼は泣くのが嫌だったからである。泣いてしまえば大事なことを忘れる、というのが彼の経験則であり、彼は泣くことによって自分の大切な記憶が失われるのを忌避したからだ。そしてひとが泣くのはしばしば、自分が定型的なストーリーの上に乗っかっている、と認識した後である。これは誰が見ても悲しむべき状況であろう、というときの方が涙は流れやすい。これで泣かない奴は人間じゃない、というのはそういうことで、ひとが泣く、という行為はしばしば、これは誰にでも通用する(話せば涙を誘う)物語である、という確信とセットになっている。
 なにも私は、泣くというこ行為は定型的なストーリーに自分を売り渡すこととイコールである、と主張しているのではない。ただ、そうしてしまうことと親和性が高い、と申し上げているだけである。そしておそらく、堂島コウが、泣いてしまえば自分の核となるような記憶を失う、というオブセッションにとらわれるのには(それが読者に説得的であるのには)、このような事情がある。

 もっとも、ジャストボイルドであること(「ついでな感じ」=シリアスに、深刻に過ぎないこと)とは、自分が自分であるためのひとつの真摯さ──真面目でないとしても、決して無目的にふざけているわけではなく、自分に何よりも正直であるための──である、なんてことは、うえお久光のファンにとってはあまりに常識的にすぎて、いまさら取り立てて言うまでもないだろう。つうか、あれこれ説明するよりは、読んで感じろ、なんですけどね。

 そして僕はどうも真面目に語りすぎてしまったようだ。というわけでこの感想は失敗作です。