http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20061226#p3
http://b.hatena.ne.jp/imaki/memo/
 はい失礼しました。そちらの日記を読んでたら、なんか色々ともにょって来てたのでつい。
 さすがに説明責任を感じるところなので以下に説明を書きます。

「で、その『西洋哲学史』がスピノザを「結果的に汎神論的立場になっちゃっただけ」と言っている件について。」

 後世への影響云々についてはヘーゲルとかニーチェとか唯物論あたりの方が有名だとは思うんだけど、かといって例えばスピノザ唯物論者と呼ぶのはどうか。

 んー。「汎神論者」と「汎神論的な立場」はかなりニュアンスが違う。後者の方が汎神論にコミットするニュアンスがかなり弱い。というか、「汎神論者」だと汎神論に自覚的にコミットした、そのように自称した主義者、というニュアンスが出ちゃう。無論スピノザはそうではないわけです。
 てか「汎神論」が多義的なので、ある意味では汎神論者だが別の意味では汎神論者ではない、という言い方が普通に起きます。むしろ註釈抜きで「スピノザは汎神論者」といきなり言ってしまう方が不用意に思えます。

 で『西洋哲学史』はこう。
 《もとよりスピノザは超越的な神を認めないが、しかしその汎神論的立場は神の唯一絶対性を強調したために生じてきたものであり、したがって通常いわれるごとく、かれを「神に酔える無神論者」と称することができるであろう》。
 これはもちろん「無条件には汎神論(者)とは言い切れない」という話。で、通常言われるように「神に酔える無神論者」でも可。

 少なくともこの本を持ち出すなら、「スピノザは汎神論」で済ませるのもそれはそれで問題なんじゃないかしらね。また「無神論者」と呼んだとて(野嵜さんも高橋さんもそうは呼んでないんだけど)必ずしも無知をさらけ出すものでもない。
 ちなみに上野修スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか』(おそらく野嵜さんが今回読んだ本)でも汎神論は完全スルーでしたが(そして『「無神論者」』と呼んでいるわけですが)、だからといって上野修が無知であるとはいえないと思います。野嵜さんも。

「あと英米仏のそれぞれで革命の担い手は異なるので、「市民」と総称するのはけっこう無茶、というのは受験参考書レベルの話。」

>ソースキボンヌ
 『詳説世界史研究』。立ち読みなのでページ数とか出せませんごめんなさい。あと言い回しのニュアンスはたぶん違うと思う。
 とりあえず、明治維新を「市民革命」と呼ぶか否かでずっと議論があるそうです。『詳説世界史研究』によると。
 どちらかというと、個々の歴史的事件について、「市民革命」と称するのが妥当か、あるいは「市民」や「革命」と呼ぶ範囲をどこまで広げるかまたは狭めるか、冥王星は惑星か否か、みたいな話かと思われます。
 市民革命、だと、市民が主体となってそれまでになかった権利を獲得した、というストーリーじゃないとちょっと困るわけです、たぶん。少なくとも英国では一部の歴史学者を除いて、清教徒革命は革命と呼ないのだそうです。中公『世界の歴史』新版17巻によると。
 また中公『世界の歴史』新版は、英国の市民革命については、カギカッコつきで、いわゆる「革命」と表記するのみで、革命と正式に称することを完全に拒否しています。むしろ「革命」概念を当時の動乱に当て嵌めることへの疑義が提出される。
 しかしじゃあ『世界の歴史』のその個所の担当者が、市民革命一般の意義や市民の権利や革命権を否定しているかというと、そのへんは決定できないわけです。あとあの『世界の歴史』のいうことだから、まあそんなにハズしたことも書いてないんだろうし。てなわけで、英国の市民革命を否定された程度でいちいち驚いてみせるのもどうかと思う。

 あと「オランダによる占領」云々についてはこのへんとか。いや『世界の歴史』はこんな激越な調子じゃないですけどね流石に。
 http://homepage3.nifty.com/hiway/holland/jword/willem3.htm

ドストエフスキー木村敏はどうなるのかしらね。」

 ドストエフスキーは癲癇のときに見たヴィジョンについて「これがただの癲癇の見せる幻覚でも、私は自分のヴィジョンの価値を信じる」とかそんなようなことを言ってた。で文学にした。そしたら文学的真実ということになった。癲癇が脳の器質的な病である、ということを認めないドストエフスキーの読者は現在いないと思うけど。
 木村敏は心因説肯定派ってわけじゃないけど、統合失調症を掘り下げて考えていった結果、時間論やら何やらで、まあそれなりに普遍的な哲学的真理を見出した人です。とりあえず、掘り下げれば何かは出て来る。

 病にすぎないかそうでないかとか、原因がどのようなものかと、何も出て来ないかどうかは、関係ない話じゃないですかね。単に物質に原因する病だろうと何だろうと、どのみち人間の生きる現実の一部なわけだし。あとオリヴァー・サックス『火星の人類学者』とか。

「しかし「素晴らしい国だから愛する」だと北朝鮮が韓国みたくなっちゃうわけで。」

>……意味が分からん。解説キボンヌ。「北朝鮮か韓国みたく」の誤記かな?

 誤記です。恥。
 北朝鮮型の愛国心とは「北朝鮮は素晴らしい国だから」じゃないの? 少なくとも愛国心教育は。北朝鮮に縛りつけられている人々の愛国心がどのようなものかは寡聞にして知りません。あと、愛してなくてもどうせ縛りつけられるんだから、愛国心は関係なくないですかそのへんは。
 というか、対立軸が、もとの野嵜さんの話からして「素晴らしい国だから、式の愛国心教育」と「無条件の愛国心」、つまり「愛国心教育愛国心」なので色々とややこしい。
 韓国。愛国心教育の根本を「自分たちの国は素晴らしい」にすると、これは「嘘でもいいから素晴らしいってことにしとけ」という捏造に走ります。その例が韓国じゃないか、という話。で、出て来るのは「自分の国は客観的にみて素晴らしい」と力説する愛国者
 なんかそういうのよりマシじゃね?
 「どっちがマシか」は水掛け論の予感、か。別にいいけど。
 愛するぐらいは相手がダメでもいいじゃん別に、勝手にすればいい。ダメなままでいい、とまでは言わない。ダメでも愛さなければならない、とは絶対に言わないが。野嵜さんの主張は、第一には、愛国心ぐらい俺の勝手だ、だとは思う。