さて私見では、ツンデレとは「他者の無理解」(周囲の否定的評価)を前提とする。ツンデレ萌えを基軸とするストーリーは、私(視点キャラ)だけが彼女の、(だれにも理解されない)「ほんとうの魅力」を知っている、という話型をとる。逢坂大河は世界で一番素敵な女の子であるのだが、そのことは高須竜児にしか(というか竜児にさえ)理解されない。このことの論理的帰結は次のようなものだ。私がいなくなれば、彼女の真の魅力を知るものはいなくなるだろう。だから私は生きなければならない*1。このようにして我々は、己の存在の固有性を基礎付けることができるのである。
 かつてメイドや幼なじみや妹や好まれたとき、そこで問題となったのは承認や肯定*2であったろう。ツンデレが我々に与えるのは自己の固有性の感覚である。ツンとデレの落差というが、デレとは「ぼくだけの前で」であり、厳密には「ぼくだけが知る彼女の内面において」であり、より厳密にはツンデレっ娘*3の行動の断片を素材にその内面にわれわれが仮構し相手の上に投射するストーリーなのであって、「私たちは他人の語る理路整然とした話より、自分で作ったデタラメ話の方を信じる」がゆえに圧倒的な訴求力を持ちもするが、一方で、ストーリーを自力で組み立てる知的負担に耐えかねたひとびとが素直クールに走ったりもするのもまた必然なのである。といったことをはてブのコメント読んで思いついたのだがどうか。

追記(5/13)

 内田樹『先生はえらい』をようやく発掘したので引用しておく。いらぬ註釈をしておくと、中学生高校生にむかってラカンの転移論を「噛み砕いて」説くという趣旨の本。タチが悪い。
 ちなみに内田樹の「噛み砕いて」とは「話をより複雑にする」とほぼ同義なので、この本も論旨が錯綜と輻輳をきわめ、どこからどこまで引用したものやら迷う。

 恋愛の場合、まわりからみるとどうしようもないグズ男やダメ女に恋してしまった人が、そこで「真実の愛」を発見したと信じていたとします。その時恋する人が経験しているのは、まぎれもなく「真実の愛」です。そのときの陶酔や高揚や私服は(仮にあとで幻滅が待っていたとしても)、リアルタイムでは圧倒的現実なのです。
 その逆に、よく友達の紹介で「おつきあい」を始めるというような場合はに、「すごくいいやつ」「とってもいい人」というふれこみなんだけれど、いざ「こんちは」と挨拶して、お話ししてみても、ぜんぜんその気になれないということって、ありますね。条件はそろっているんだけれど、どきどきしない(、、、、、、、)
 ということは、恋が始まって、かーっとのぼせてしまうきっかけというのは、学歴とか年収とか身長とか顔の造型とか服のセンスとかいうような外形的・定量的な条件ではないということですね。
 そうではなくて、にこにこおとなしそうな少女の目にときおりよぎる「底なしの哀しみ」とか、凶暴な面相の少年が捨て猫を見るときにふとみせる「慈しみにあふれたまなざし」とか、そういう意外性が「どきん」のきっかけでしょ? たいてい。
 でも、それって実在するもの(、、)ではありませんね。
 あなたが「あ、この人には、そういうところがあるんだ」と思い、「そういうところ」に気がついているのは私ひとりだ(、、、、、、、、、、、、、、)という確信があるから、どきどきしちゃうわけですね。
 わかるでしょ?
 道に先に一万円札が落ちていて、それに道行く人はどうやら誰も気づいていない、というときにはどきどきしますね。「あ、誰も気がついていない……あと五歩ゆくあいだに、誰も気がつかなければ、オレのもんだ」と思って歩く五歩はどきどきしますね。
 それは科学者も同じみたいです。ある仮説を立てて、実験を重ねているうちに、どうやらこれはノーベル賞クラスの新発見らしいということに気づく。そこで『ネイチャー』とか『サイエンス』とかに投稿しようと思って、誰かがこれと同じ法則を自分より先に発見していないかインターネットで検索するときって、喉から心臓が飛び出しそうなくらい「ばくばく」するらしいです。
 「どきどき感」のこれはひとつの典型なんですけれど、「誰も気づいていないことに、私だけが気づいていた」という経験て、たぶん人間にとって、「私が私であること」のたしかな存在証明を獲得したような気になるからでしょうね。
 恋も科学の実験もそういう意味では、とても人間的な営みなんです。
 恋に落ちたときのきっかけを、たいていの人は「他の誰も知らないこの人のすばらしいところを私だけは知っている(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)」という文型で語ります。みんなが知っている「よいところ」を私も同じように知っているというだけでは、恋は始まりません。
 先生も同じです。
 誰も知らないこの先生のすばらしいところを、私だけは知っている、という「誤解」(と申し上げてよろしいでしょう)からしか師弟関係は始まりません。

「この先生のすばらしさを知っているのは、あまたある弟子の中で私ひとりだ」という思いこみが弟子には絶対に必要です。それを私は「誤解」というふうに申しあげたわけです。
 それは恋愛において、恋人たちのかけがえのなさを伝えることばが「あなたの真の価値を知っているのは、世界で私しかない」であるのと同じことです。この先生の真の価値を理解しているのは、私しかいない。
 でも、「あなたの真価を理解しているのは、世界で私しかいない」という言い方は、よく考えると変ですよね。
 それは「あなたの真価」というのは、たいへんに「理解されにくいもの」であるということですから。つまり、あなたは、誰もが認める美人や誰にも敬愛される人格者ではない(、、、、)ということですから。
 不思議な話ですけれど、愛の告白も、恩師への感謝のことばも、どちらも「あなたの真価は(私以外の)誰にも認められないだろうという「世間」からの否定的評価を前提としているのです(、、、、、、、、、、、、、、、)
 でも、その前提がなければ、じつは恋愛関係も師弟関係も始まらないのです。「自分がいなければ、あなたの真価を理解する人はいなくなる」という前提から導かれるのは、次のことばです。
 だから私は生きなければならない(、、、、、、、、、、、、、、、)
 
 そのようなロジックによって、私たちは自分の存在を根拠づけているのです。

*1:内田樹『先生はえらい』参照

*2:オタクはそうしたヒロインを通して自己の承認や肯定の感覚を得ている、といわれていたところの

*3:と我々に目されるところの相手