CLANNAD(コミュニケーションの酸素濃度)

・学園での日常について。とにかく楽しかったのを覚えている。第一に下品である。おいおいなんだそれきったねえなあ、鼻からジュースかよ、とか、そこで男子便所かよ、とか、まあそんなの。『Kanon』で風呂を味噌汁と化し女の子の頭部を納豆まみれにしたあのノリだ。女の子を連れションに誘いあるいは男子便所に置き去りにするなんてそんな、七瀬だってされなかったようなことを! である。『ONE』での椎名繭とのディナーなども想起されたし。オチを付けるなら、子供時代の幸福とは不潔さや下品さを抜きには語れまい。少なくとも男の子には。つまり幸福のモデルがまずは子供時代である、いってよい。ここまでは過去の作品と変わらぬのだが、周知の通り作品が目指すものはその先にある。

・プレイ当初、1月ごろに残したメモに「千早ふる」とある。むろん落語のそれで、今となってはなぜそんなことを書いたのか正確には思い出せないのだが、おそらく朋也が春原相手にかますその場かぎりの思い付きの与太話やあるいは渚のモノローグや風子のリアクション相手に次々と思いつくストーリー、そしてまた藤林の占い(第六感フル稼働)、等々、といったものからの連想だったと思う。この印象の淵源を尋ねれば、とりあえずは『ONE』で、七瀬の椅子に置かれた画鋲から発し鉄パイプに及ぶあのひどい妄想にゆきつく。さらには『MOON.』で由依が郁未の母について好き勝手な妄想を繰り広げるのを挙げてもいい。きわめつけは『MOON.』の麻枝准(だ〜まえ)によるスタッフコメントでのショートストーリーで、その場の思い付きが際限なく膨らんで異様な幻想味に満ちたストーリーを現出させる。

・過剰なまでに機能するボケとツッコミ。アクションには必ずリアクションが伴う連鎖の掟。一方では杏がなぜか仕掛ける占いはわけがわからず、いやがらせとしか思えないし、渚のモノローグが唐突なら他人のモノローグに突っ込む朋也も朋也だが、にもかかわらずそれらはコミュニケーションとして所を得ている。ひとたび発せられた言葉や言葉以前のものたちは、決して宛先を得られぬまま淋しく横死することはない。
 コミュニケーションを呼吸に喩えるなら、ここは酸素濃度が高い。大きな声で話す必要もないし、明確に何かを伝えなければならないということもない。以心伝心で察してくれる、というのではなく、ボケとツッコミが成立するには相互理解や意味内容の伝達を要しない、というていどの意味だ。それが親密な空気ゆえに成立するのか、それとも贈与と返礼の運動が親密さを醸成するのかは僕の知るところではない。