『うた∽かた』#1〜#6

 おお、児童文学だ──というより児童書か。あるいはジュヴナイル。中学生の一夏ちゃんは、旧校舎の掃除中にヘンな鏡からでてきたヘンな格好した女の子と、ひと夏のあいだ同居することになる。が、そのことはどうも大人たちにはとうに了承済みらしかった。そして、超自然の存在との交感には、自分の預かり知らぬルールが介在しているらしい──。ひと昔まえの中学生向けの雑誌に連載され読み捨てられるようなノリであるな。携帯電話という現代風の小道具がいっそ浮いている。文庫に喩えるならソノラマ。まあノスタルジー以外に何があるかと言われると返答に窮するので、正直、八十年代以降に生まれた人にはあんまり自信をもって薦められないが。あと、一夏のグダグダっぷりがちょっと他人に思えないのはいいんだけど、おかげで変身後のコスチュームまで妙に恥ずかしくて困った。あれ、自分で気に入ってるかどうかはともかく、知り合いには見られたくないだろそら。

 たとえば、地に落ちる雨粒の視界を借りる、という発想は面白い。そして#5まで観ると、これが「見る」ということについての作品だということがわかる。そこでようやく、#1で涙を流していたことが少し腑に落ちる。なにしろ、ものを見る器官と泣く器官は隣接しているのだ。

 #5で触れられるのは、ものを見るためには光を当てなければならないが、光の粒子は対象を無傷で済ませることができない、といった話だ。これは外送理論的な発想だが、むしろ、無傷ですまないのはそれを見る目(観測者)のほうだと言うべきだろう。「見つめることにおいて傷つくのは、絵画ではなくむしろ目の方なのです。網膜も、視神経も、光の粒子に(あるいは波動に)傷つけられる」。

《内送理論においては、きわめてぶっきらぼうに、視覚は「薄い膜(エイドス)と眼の《衝突》」として定義されるに過ぎません。この宇宙は、我々も含めて、原子という小さな粒から出来ており、我々の身体にシャワーにように降り注ぐ膨大な粒のごく一部が、身体のこれまたごく一部である眼球に(あるいは網膜・視神経に)衝突しただけのこと----ここでは視覚=認識は「能力」などではなく、ただ単に(この宇宙にいくらでも起こる《衝突》という)「出来事」のひとつでしかありません。石つぶてが、例えば腕にでもあたったときに感じる感覚(たとえば痛み)と、それはいささかも違いはないのです。》

 さまで言わなくとも、「見る」ということは「見える」(見ることができる/見ることしかできない)という「能力」とは別の話であるはずなのだけれど、そうならないのが、いささかひどい話ではある。嫌いではないけれど。

 それだけに#6のラスト、一夏が見られること(実は気付かれていたこと)気にしているのは随分と安心できる話でね。実は知っているのに黙って嘘ついて、しかも相手にもそのへんの事情はわからない、というのは勘弁してほしいから。