以下の文章はleaf『痕』のネタバレを含みます。


 いや、真面目な話『痕』で「複数の分岐をたどることによって事件の全体像が明らかになる」なんて言い方が成立するのがまるでわからなくてさ。たとえば分岐によっては、千鶴さんは耕一を殺した「犯人」であることもあれば、そうでないこともある。しかし、あの連続猟奇殺人の犯人はどの分岐でも常に一定である。なんじゃそら。わけわかんねえよ。

 ところで、昨日はリンク貼ったはいいがよく読めていなかったのだが、『弟切草』の忘却とRPGとの類縁性を指摘する以下の文章が興味深い。あたしゃ『痕』で千鶴さんに殺されるエンディングでは、耕一が犯人だったことになってると(それこそ「自然」に)思い込んでいた。違ったけど。いやそんな誤解だなんてひどい。

全体の整合性を重視する「同一世界解釈」はRPGストーリーテリングの歴史に強く影響を受けている。背景となる世界設定(世界観)があり、そこを「自由」に 動き回る主人公がいる。プレイヤーの選択では背景世界は変わらないという先入観。ノベルゲームの始祖と言える「弟切草」がプレイするたびに言葉の意味もガ ジェットの意味も変化していたことは忘却され、RPGの語りの手法が主たる読み筋となる。それが痕の「全部を読むことでわかる世界観」神話を作りあげ、その後の分岐ノベルゲーのファン層に決定的な「捻れた」読み筋の定番を押し付けていく。

 
 ここでAVGについても触れておく。たとえばコマンド総当りで解けるAVGにおいて、コマンドをどの順番で選ぶかはゲーム内の世界の「外側」、プレイヤーの側に属する。それは世界に属さない行為である。どこへどの順番で訪れようが、どこへどの順番で訪れたということ以外は変わらないし、進展があるまで世界の時間は止まっている。
 ノベルゲーにおける同一世界解釈ってのはつまり、テクスト上で長々と語られる娘さんのエピソードや振る舞いまで、前述のコマンドを選ぶ順番のような次元(上の引用でいうところの「自由」)へ置くことを意味する。って誰かがこういう話してませんでしたっけ。