〈子ども〉-の-哲学

http://d.hatena.ne.jp/Tskk/20040127#p3
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/kuru/LIFE/life1.html

(蛇足というべき注釈/ビギナーのための:
 カール・マルクスカート・ヴォネガットはもちろん「宗教なんてうそっぱちだ」と糾弾したかった訳ではありません。
 「王様は裸だ」といっておけばそれでいいといった言説(ことばのことです)が、一人前の顔をしていることがままありますが、それは例えば「子供のテツガク」のようなものです(断固として、人の自己欺瞞や偽善ぶりだけを追求する人たちのことです)。王様にだって裸でいる訳や理由というのがあり、加えて王様が裸でいることが何を引き起こすかという分析だってまだなのですから、それは性急というものです。そしてそれが何故「子供のテツガク」と言われるのかといえば、実は「子供の(ための)テツガク」というより、人を永遠に幼年期に閉じ込めておこうとする閉回路であるからです。ハダカの理由や帰結なんて知らなければならない訳ではありませんが、知りたいと思ってもかまわないし、しかもそれはふいに襲ってきたりします(なにしろあの王様がハダカなのですから!)。「知への希求:フィロソフィー」をあらかじめ流産させるものがあるとすれば、それは知の退行として「子供(でしかないような)テツガク」と呼ばれるのです。
 実際のところ、リアルなのは「神はいない」よりむしろ「神はいる」の方なのです。何しろそれは実感され、時に体験さえされるのですから。「神はいない」の方はただ、小賢しい「反省」の中にしかないものであって、決して体験されることはありません。
 それでは何故、我々は神様を作り出さなければならなかったのでしょうか(たとえば神の前には、我々はすべて、断固として偽善者でしかないのですが)。
 神様は、「神様はいないという反省」が人の頭が作り出したものであるのと同様に、フィクションです。いうまでもなく、fictionとはfictio(つくる)というラテン語が語源のことばで、その意を汲めば「つくりごと」とでも訳すべきものです。  たとえば「人を殺してはならない」は、いうまでもなくフィクションです(国家や貨幣制度がフィクションであるのとおなじように)。「子供のテツガク」がいうのはここまでです(虚偽/偽善を捨てて「リアル」へと回帰しようとする人々は、しばしば国家や貨幣へと「帰」っていきます)。そして ヴォネガットマルクスが言ったのは、これと似てるようでいて、てんでちがうことでした。)