http://neo.g.hatena.ne.jp/xx-internet/20060506/p1
 ちょうど『BAMBOO BLADE』に手を出したところだったのでツボった。

参考

http://internet.kill.jp/d/200509.html#d18_t1
http://internet.kill.jp/d/200511.html#d20_t1

 さて先月末ごろの話だが、crow_henmi氏による山月記のラノベ化、というネタを読んだとき何かが記憶に引っかかっていたのだがこのたび氷解した。

 ちなみに、『とらドラ!』を読んでいたとき、虎、からの連想で『山月記』のことをしきりと思い出したりしていた。何、逢坂大河が虎であるとはどういうことか、ずっと考え続けていて、それで何かの足しにならないかと思ったまでだ。獰猛なる手乗りタイガーに食い殺されるだの何だのと、竜児くんが随分と真に受けていたせいもある。然し「なんで、誰も、わかってくれないんじゃー!」という絶叫はあの虎の咆哮に似てはいないか。彼女の傷つき易い膝小僧を誰も理解しなかったのではないか*1。あと自嘲とか。そんな程度である。

*1:《まして、己の頭は日毎に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪らなくなる。さういふ時、己は、向ふの山の頂の巌に上り、空谷に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴へたいのだ。己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。誰かに此の苦しみが分って貰へないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮ってとゐるしか考へない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持ちを分って呉れる者はない。恰度、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解して呉れなかったやうに。己の毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。》

 さて私見では、ツンデレとは「他者の無理解」(周囲の否定的評価)を前提とする。ツンデレ萌えを基軸とするストーリーは、私(視点キャラ)だけが彼女の、(だれにも理解されない)「ほんとうの魅力」を知っている、という話型をとる。逢坂大河は世界で一番素敵な女の子であるのだが、そのことは高須竜児にしか(というか竜児にさえ)理解されない。このことの論理的帰結は次のようなものだ。私がいなくなれば、彼女の真の魅力を知るものはいなくなるだろう。だから私は生きなければならない*1。このようにして我々は、己の存在の固有性を基礎付けることができるのである。
 かつてメイドや幼なじみや妹や好まれたとき、そこで問題となったのは承認や肯定*2であったろう。ツンデレが我々に与えるのは自己の固有性の感覚である。ツンとデレの落差というが、デレとは「ぼくだけの前で」であり、厳密には「ぼくだけが知る彼女の内面において」であり、より厳密にはツンデレっ娘*3の行動の断片を素材にその内面にわれわれが仮構し相手の上に投射するストーリーなのであって、「私たちは他人の語る理路整然とした話より、自分で作ったデタラメ話の方を信じる」がゆえに圧倒的な訴求力を持ちもするが、一方で、ストーリーを自力で組み立てる知的負担に耐えかねたひとびとが素直クールに走ったりもするのもまた必然なのである。といったことをはてブのコメント読んで思いついたのだがどうか。

追記(5/13)

 内田樹『先生はえらい』をようやく発掘したので引用しておく。いらぬ註釈をしておくと、中学生高校生にむかってラカンの転移論を「噛み砕いて」説くという趣旨の本。タチが悪い。
 ちなみに内田樹の「噛み砕いて」とは「話をより複雑にする」とほぼ同義なので、この本も論旨が錯綜と輻輳をきわめ、どこからどこまで引用したものやら迷う。

*1:内田樹『先生はえらい』参照

*2:オタクはそうしたヒロインを通して自己の承認や肯定の感覚を得ている、といわれていたところの

*3:と我々に目されるところの相手

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